夜の帳の降りるころ

夜の帳

ミネルヴァの梟の飛び立つ時刻。万葉集の時代なら、この夕闇に自身の運勢や恋の行方を占う時刻。
夕占(ゆうけ)あるいは辻占などと言われるその占いは、昼と夜のどちらでもない境界(間の時刻)に、人通りのある辻や巷、橋の上などに出て、行き交う人々が夕闇に紛れて誰とも判別のつかない黄昏(誰そ彼)の中で耳をすまし、流れ行く言葉の断片から自身の未来を占うのだ。

道行く誰かの言葉から未来を予測するとは、なんともいい加減で他力的に思えるが、よくよく考えてみると、そこに興味深い問題が横たわっていることに気づかされる。

沢山の流れ行く言葉の中から印象に残る言葉や、はっとさせられる言葉、あるいは気づきを促す言葉をすくい上げる行為は、私たちの無意識に眠る潜在的なリソースに触れるための行為でもある。
ある言葉に反応するには、あらかじめ下地となるリソースがなければ、なんの反応も起こりようがない。つまり、過去の体験や記憶が無意識へと沈み、あるきっかけで水面に浮かび上がるように意識に立ちのぼってくる。そのような無意識下のリソースが私たちの意識活動の全てを下支えしているだ。現代の社会では、顕在化した意識のみが大切とされ、無意識なんてユングやフロイトみたいな心理学のみで扱うものとしてその存在に蓋をしてしまっているのではないだろうか?

夕闇に紛れて自身の意識と無意識の境界をあやふやにし、曖昧にうつろう内なる自身の声にそっと耳を傾ける。そのような微妙かつ繊細な時間を、私たちは果たしてどれだけ手にしているだろうか?

夜の帳の降りるころ、ミネルヴァの梟の羽音にではなく、遠く万葉の時代の「意識」へと思いを馳せてみたいと思う。

金木犀:香りが運ぶもの

金木犀

このところ、いつもの道を歩いていると、どこからともなく金木犀の香りが漂ってくる。
本格的な秋の到来を告げるその香りの中に、かすかに胸を締め付ける切なさを含んでいる様に感じる。
中学校の校庭に咲いていた金木犀の香りとシンクロして、その頃に感じていた気持ちが、ふと蘇るのだ。
そのように香りは、感情や記憶を鮮明に蘇らせることがある。
それは、脳の中で嗅覚を知覚する部分と感情や記憶を司る部分とが隣接して居る事に由来している。
つまり、香りが記憶や感情の回路とダイレクトに繋がっているということらしい。

また、何かの香りに惹き付けられながらも、同時にどこか切ない感情が立ち上るのは、
香りというものは留めておく事が出来ずに、僅かな時間の経過とともに
空中へと儚く消えていってしまうからではないかと思う。
そして、私たちの存在も、香りの様に留める事が出来ない時間の中に存在しているからではないか?

留まる事のない、私たちの存在そのものが、一回性の持つアウラの輝きに満ち溢れている。
香りが感情や記憶の回路と密接に結びついている背後において、
その様なことを、秘かに、そっと、私たちに伝えているような気がしてならない。

味覚と感覚:あるような、ないような。

味覚と感覚

豆腐の味わいにしても、枇杷のそこはかとない甘みにしても、
梨のあるような、ないような味も、どこか捕らえどころがないように思う。

残暑の残る秋の空の下で、良く冷やした梨を頬張るときに、瑞々しさとうっすらと広がる甘み、
あるいは、あけびを口に含んだ時の、何とも言えない曖昧模糊とした味わい。
そこはかとないもの、脆いもの、儚いものを愛おしむ感性に日本的なるものを感じてしまう。
蕎麦につゆを付けずに蕎麦本来の味を楽しむのが粋とされる様に、
本来的に私たちの感覚が、微細な方向へとむかって行った背景には、
味覚が少なからず関与しているのでは無いかと思われる。

何も無いなかに、微細な変化を配置することで、空間のダイナミズムを生み出してきた茶室にしても
絵画や文学の余白や余韻を味わう美的感覚にしても、そこに有るものよりもむしろ、
ない状態や欠落していることで膨らむ想像の方に重きが置かれている。

味覚の微細性もまた、あるような、ないような、ほのかな風味を味わう事で
その感覚の領域を広げていると言えるのではないだろうか?

あるような、ないような、その境界の向こう側に、感覚の広大な未踏の地が広がっている。

無限の中のほんの少し

東京タワーと月

地球が太陽の周りを、また一周した。
1秒、2秒、3秒、4秒、5秒。この5秒の間にも地球は太陽の周りを149km 進んだことになる。
無限の中をほんの少し、ほんの少しだけ。

でも、お腹が減れば、無限も何処かに吹き飛んでしまい、
電話が鳴れば、宇宙空間もただの夜空にすり替わる。くしゃみをすれば、永遠も時計の針へと姿を変え、私はまた、いつものように、ここに立っている。
そして、今日も日常が地球の上に乗って、宇宙空間を静かに回っている。

影:マージナルな辺縁

kage

時に影は、実体以上になにか迫りくるものを伝えていることがあり、
その独特な存在感は、心の奥深くに眠っている何かに訴えかける力がある様に感じる。
その様に影を見るときに、私たちはそこに本当はなにを見ているのだろう?
そこには、一体なにが潜んでいるのだろうか?

小さな子供が、自分の影の存在に気が付いたときに、どこまでも付いて来て離れることのない影に怯え、泣き出してしまうことが、ままあるそうだ。
それは、ただ単に未分化な知覚が、自身のボディーイメージに影を結びつけていないと言う、それだけのことではない様に思える。そのとき、そこに何を見ているのか? そこには明らかに、影の中に潜んでいる、他者性が見え隠れしている。

物質の延長としての影。実体を通り越した、物の際(きわ)がそこにある。
際(きわ)とは境目にあり、あちらとこちらの両方に触れている境界のことだ。
つまり、実体を持たない影はあちらでも、こちらでもない、間(あいだ)の領域に存在していることになる。
そのどちらともつかない、あやふやで微妙な、そのあり方そのものが、
どことなく怪しく漂う異界性へと繋がっているのではないだろうか?

そして、普段、気にしていないけれど、私たちはひとりづつ、一つの影を抱えて暮らしている。
影は何処でもない間(あいだ)の領域から、私たちをマージナルな辺縁へと静かに誘っているのだ。

いまは、むかしむかし。

夜道

帰り道。
ふと、空を見上げると、金星が夜空に針の先くらいの穴を開けている。
なんだか、とてもドキッとした。
金星が太陽の光を受けて、宇宙空間の中にうかんでいるのではなく、
あ、これは針で開けた穴だと、ついうっかり思ってしまった。
そこに、無限の空間が広がっている事を忘れて歩いて居る間に、地上は回転を止め、太陽が地球の周りを回り始める。
昔の人が月や星を空に開いた穴だと思ったのも、実感として自然なことだったのだろうと思う。

コペルニクスの「天球の回転について」から465年、
私たちは宇宙空間の片隅に浮かぶ自分の存在を、何処まで真摯に受け止める事が出来たのだろう?
また、知識として知ることで失われてしまった想像の中に、なにか大切なものが含まれてはいなかったのだろうか?
そして、未知なるものに対する寛容さを失わずに、世界と向き合うことができているのだろうか?

ゆっくり歩くこと

珠宝

普段、歩いている道。
私たちの知覚は世界から、いったどれだけのモノを拾っているのだろう?
1枚の木の葉に含まれる情報はきっと一生かかっても語り尽くすことは出来ない。
その様なありとあらゆるモノの中を、私たちは気付くことなく、いつも何気なく通りすぎている。
1メートルを1分かけてゆっくり移動すれば、そこにある情報の多さにめまいを起こすかもしれない。
また、葉っぱ一枚に触れた時に感じる情報だけでもきっと、とてつもなく膨大なはずだ。
その膨大な情報のほとんどが無意識の中へと静かに消え入り、あるいは知覚の外側へとこぼれ落ち、その僅かな残りの、ほんの少しだけが指先に伝わってくる。
決して私たちがつかみ取ることの出来ない世界像が、今も目の前に広がっている。

青の時間

青の時間

昼と夜の間に世界が青く染まる時間帯がある。昼でも夜でもない間(あいだ)の時間。
朝方の澄み渡る青い感じも良いが、私はどちらかと言うと夕方の「青の時間」に心が惹かれる。
今の季節なら遠くでひぐらしが鳴いているかも知れない。
家々の窓には明かりが灯り、何処からともなく夕飯の美味しそうな匂いが漂ってくる。
近くに居ながらも、出会う事のない見知らぬ誰かの存在をこんなに近くに感じるのは、夕飯の匂いのせいなのか?
そして、その存在がよりいっそうに断絶されて、その人の生活や人生と永遠に接点が無いと強く感じるのは、この世界を染めるような青色のせいなのか?

家の中の見知らぬ人の気配とは対照的に、道を歩く人はうすらぼんやりと輪郭を失い、実態の無い影のように見える。それは、人のカタチをした夜が歩いているかのようだ。
何処にも属さない青い時間の中を行く人は、どこか重力から解放された軽やかさがある。
また、この時間帯にビルの谷間を歩けば、今にも蜉蝣(かげろう)のような透明な羽を生やして
人々が紺碧の空へと飛び立つのではないかと思えてくる。

人のカタチをした夜が濃紺の空気と溶け合う時、街灯に明かりが灯り、夜がやってくる。
青の時間はいつの間にか、音もなく日常へと移行してしまっている。
そして私は、いかにもあっさりとあっけなく、人知れずに夜へと着地するのだった。

地域とデザインについて:倉式

倉式

倉敷の友人から 雑誌「倉式」vol.03 が届きました。
倉式」は岡山の倉敷を震源地にクリエーターが集って
「モノづくりの力でまちを元気にする」をテーマに展示イベントや出版などを展開しています。
活動エリアも岡山から福山、津山、香川へとネットワークを広げているそうです。

インターネットが発達して遠くの誰とでも繋がることが出来る様になったのに
それとは裏腹に人と人の繋がりがどんどん希薄になってきている現代。
そんな中にあって、地域を通して人と人が再び繋がりを回復し始めている様です。
例えばそれは、みんなが一つの何かに取り組むムーブメントであったり、
イベントやワークショップ、サロンなど、地域の活性化を計る試みがあちこちで展開されています。
人が集まることで生まれる知恵やエネルギーで現代の閉塞感を突き崩そうとしているかの様です。
東京ではシブヤ大学IID 世田谷ものづくり学校東京自由大学の様な学校形式のものから、オルタナティブスペースなどギャラリーとしての活動や、様々なコミュニティーが形づくられています。

その様な繋がりの回復が図られる中に置いて、デザインやアートなどのクリエイティビティーが
重要な役割を果たしていることが多く見受けられます。

デザイナーはモノをキレイにカタチ作ったり、整理するだけでなく、
人と人の繋がりの仕組みを作り、活性化させて行く大きな原動力として機能しはじめています。
元々デザイナーは企業と消費者を繋ぐ役割を果たして来ていましたが、環境と人を繋いだり、地域と人を繋いだり、という様により社会性をもった役割に変わって来ているのだと言えます。

今後、デザイナーやアーティストが社会の中でより重要な役割を担って行く事になるのではないでしょうか。

everyday life

everyday life

何気なく、普段、過ごしている日常。
誰かとしゃべったり、ごはんを食べたり、電車に乗ったり、仕事をしたり
毎日の何気ない仕草や言葉、今さら説明をしなくても分かること。
社会の仕組みや常識や習慣、世間での出来事など、
長い時間をかけて、積み上げられて来たそれらのモノやコト。

でも、一歩その世界の外に出れば、それらは常識として通じなくなってしまう。
旅行で別の国へ行ったときのことを思い出せば、思い当たることがいくらでもある。

しかし、地理的に移動しなくても
今、ここの目に映る世界の外側に不可視の世界は広がっている。
わたしたちが慣れ親しんでいる世界も、少し見方を変えるだけで
今まで想像もしなかった世界が広がっていることに気づかさせる。
物質的、科学的にその不可視をみるだけでなく、認識的、感覚的に世界の外側に触れる。

今、此処この場所、world of everyday life の向こう側に広がる世界。
見慣れた日常の傍らに広がる世界が、今も私たちに見過ごされてそこにある。
その、声もなく、名前もないままの感触に静かに寄り添ってみたい。

地上1センチメートルの宇宙

夜空

夜、ビルの谷間を歩いていて、ふと頭上を仰ぎ見るとそこには夜空が広がっている。
改めてじっくり見上げてみると、何一つ遮るものもなく、ここから宇宙空間へと繋がっている。
頭上には無限に広がる空間がぽっかりと口をあけている。
無限の中に私が吸い込まれてしまわないのが不思議なくらいに思えてくる。
そして、足元を見れば地面は地球そのもので、地球の上に立っている私を発見する。

それらはしごく当たり前のことなのだけれど、ちょっと意識の傾けた方をかえると、
見慣れた夜空も地面もそびえ立つビルも街を照らす明かりも行き交う人々も
何処か見知らぬ惑星の上の出来事のような気がしてくる。

地球の上に立って、宇宙空間の下に居ることを忘れないでいようと思った。

目に映る東京タワーは、心の中にある東京タワーと同じ東京タワーか?

東京タワー

霧に隠された東京のシンボル。
東京タワーを思い浮かべた時、私たちの心にぼんやりと浮かぶ東京タワーのイメージは、
青空の下で仰ぎ見る、鉄骨の1本1本が鮮明に浮き彫りになった実物よりも、
この不鮮明な光景の方がずっと近いような気がした。
記憶の中に格納されたイメージは、曖昧なカタチを与えられてぼんやりと、あやふやに
抽象性の中へ溶けて行く。
誰かの顔を思い浮かべるときも、細部を鮮明に記憶している訳ではなく、ある印象の総体として
抽象化された人物像が、ありありとした個性を持って心に中に形づくられる。目の前にある東京タワーも、私たちの中でそれぞれに、抽象化された曖昧なカタチとして存在している。

はたして、目に映る東京タワーは、心の中にある東京タワーと同じ東京タワーなのだろうか?

インタラクション ~ コミュニケーションについて

コミュニケーション

インタラクションによってどの様なコミュニケーションができるのか?
表情や身振りなどの言葉以外の手段によって意思を伝える背後にあることに興味がある。

表情が持つ情報は多分、スーパーコンピュータでも扱い切れないくらに膨大な情報量をもっている。
顔自体が持つ情報量に加えて、時間軸も入ってくるし、動的に変化する筋肉や目や口の動きと意味性、それらの前後関係や言葉との繋がり、相互の共通の記憶や認識、その場の状況や社会的な文脈などなど、あらゆる情報が今この瞬間のコニュニケーションと関わってくる。
しかも、その膨大な情報の中から、必要なものと不要なものが都合良く取捨選択されている。
認知における視覚情報の割合は80%以上とも言われているけれど、脳内活動における「見る」ということを考えると外からの視覚情報はたったの3%くらいに過ぎず、あとは脳内での記憶の参照などから見るということが作られているらしい。

想像しただけでも複雑すぎて、なんでコミュニケーションが成立するのか、不思議なくらいだ。
AI(人工知能)の研究が難しいのもなんとなく頷ける気がする。
ヒューマノイドロボット(人型ロボット)が何処となく切なく見えてしまうのも
コミュニケーションの問題の背後に広がる複雑さと困難さにあるのだと思う。

逆に考えれば、そこにはまだ手つかずの領域が広がっているとも言える。
デザインはコミュニケーションを扱う分野だといっても良いとすれば、
コミュニケーションの未知の領域が、デザインの未知の領域を切り開く可能性もあるかのも知れない。

降り積もった時間の場所



制作中の作品の展示場所を探しに横浜へ。
みなとみらい線に乗ってやってきたのは、一見「みらい」とは程遠そうな古い建物のスペース。
建物のあちこちがすり減り、たくさんの人や時間が通り過ぎていったことを物語っている。
屋上に通じる踊り場の窓から空を見上げてみた。
だれかがいつか見た空と、今ここにある空はこの窓を通して繋がっている。
そこに映る空のうつろいすら、降り積もった時間の中にあるようだった。

時間は過ぎ去るものでは無く、今、此処に降り積もるものなのかも知れない。

雨がつげるなにか

雨

今日は思いのほか天気が良いのですが、、、昨日、雨の中で想ったことを書いてみました。

霧のように細かな雨が、音もなく静かに降り降り注いでいる。
街も木々も人も、通りの隅に佇む猫も、皆一様にやわらかな雨の中に包まれている。
こんな風に、大気に包み込まれる様にして雨に濡れていると、
どこか意識の奥深く遠い部分をなにかが微かにかすめて行くようだった。
それは思い出す事すらできない身体の中に眠る記憶の断片。
私たちがまだ樹の上で暮らしていた遠い昔の、濃密な森の香りを立ち上げながらいつまでも続く長い雨の記憶、樹を降り、荒野を北上した時に遭遇したであろう、サバンナの慈雨。
見渡す限りの大地を覆い尽くすようにして、細かな雨粒が身体を静かに覆ったその感覚が
今も、皮膚の奥深くに眠っている様に思えてならない、、。

皮膚の上で感じるか感じないかの、ほんの僅かな雨の感覚がその微細さゆえに、
私の中でなにか知り得ぬものが眠っている事を告げているかの様だった。

あらゆる感覚器官が長い時間を経てかたち作られ、いま「私」として外界からの情報を受け取ることができているなら、その感覚の向こう側に、いつか感じた記憶が浮かび上がってくることもあるのではないかと思った。

考えるきっかけとしての「おいしいコーヒーの真実」

遠い国のコト

遠くの国のコトを想像するのは、なかなか難しい、、。
いま、ここにある自分と、遠くの国の名も知らない誰かとの接点を見付けるのは
容易なことではないように思える。
でも、わたしたちがなにげなく口にする食べ物や飲み物は以外と遠くからやって来ている事が多い。
例えば、チョコレートもカカオなどの原材料が、はるばるガーナなどから運ばれてくる。
カフェで口にするコーヒーもエチオピアなどからもやって来ている。
さらに、コンビニのお弁当などは、食材の移動距離の合計がなんと地球4周分くらいになるらしい。
グローバリズムというのは、なにやら不気味で空恐ろしい怪物のようだ。
しかも、それら沢山の農作物をつくりながらも自分たちは貧困にあえいで、
食べることもままならないと言う、そんな悲しい現実に先進国の物質的な豊かさは支えられている。

自分が口にする食べ物を作っている人たちが幸せなら、きっと食べるわたしたちも
幸せな気持ちになれると思う。
そんな幸せの連鎖を生み出す仕組みとしてのフェアトレードが最近とても気になっている。

遠くの国のコトを考えるきっかけとして、
ちょうど、今日から公開になった映画「おいしいコーヒーの真実」を観てみようと思っています。

作家の眼差し:金田実生

金田実生 Mio Kaneda

初めて金田実生さんの作品に遭遇したのは、2003年の府中ビエンナーレ「ダブル・リアリティ―」だっだ。
なんとも、暖かい絵だった。何かを許し、受け入れるような、作家の眼差しをそこに感じた。
柔らかな筆使いの中に浮かび上がる、光の様な植物の様な色彩、
それは、支持体から遊離して鑑賞者と絵とその間に、音も無く静かに、ある印象や雰囲気、
そして、正に気配として伝わって来るのだった。
その気配は、私たちが生きていることそのものと深く関わっている様に思う。
それは私たちが、気づかずに通り過ぎてしまう何かであり、言語化される事の無い何かであり、
視覚の向こう側にある何かであり、意味が与えられることの無い何かだ。
しかし、それらは私たちの生きる世界に声もないままに、そっと寄り添い続けている。

あの時、絵から感じた何かは身体のどこかに残っていて、今でも5年も前のあの展示室を
ありありと思い出す事ができるくらいだ。

そして、この文章を書く今もその気配は濃厚に漂い続けている。

6月20日から恵比寿の MA2 Gallery で金田実生展「宵の晴れ」が開催されます。
今回もとても楽しみです。

上の画像は金田実生さんの作品:日常の強度(部分)

コンテクストデザイン・ワークショップ:チューニング

チューニング

コンテクスト(文脈)という言葉に興味があり東京自由大学で行われている
上林壮一郎さんのコンテクストデザイン・ワークショップに参加をしたのは、2年前のこと。
このワークショップの良いところは、答えや結論を無理に作り出さないところだと思う。
最終的にグループワークを通して提案にまとめ上げはするものの、
その提案はある余白を残して参加者各自の今後に委ねられる様な大らかさがある。
何にでも答えや結論や結果を求める現代の中では、疑問や不思議や興味をそのままに見つめる事は
とても貴重な試みだと思う。
参加者はテーマを通して各自の「問い」を見出すプロセスを踏む事になる。

今回で7回目の参加だが、また新たな気付きを得る事が出来たと思う。
「チューニング」というテーマでなので、どんな深いデザインの世界が見えてくるか楽しみだった。

言葉を通して考え、上林さんの作品から何かを感じ、グループワークで各自の「問い」を立てる。
今回の目的は「チューニングのセンスを磨くこと」だと言われていたのが、とても印象的だった。
私にとって「チューニング」する何かは、目には見えない物事を可視化する試みではないかと思う。
今まで、見落としていた何か、気づかずに通りす過ぎてしまう何か、触れる事の出来ない何か、、。
それらを捉える意識の変化への秘密がそこにはある様な気がする。

2008.5.24 東京自由大学 コンテクストデザイン・ワークショップ
「チューニング」-次元の断面を切るあかり- 
講師:上林壮一郎 (デザイナー・京都造形芸術大学准教授)

曖昧さの向こうに

曖昧-1

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「なんとなく」なものが良いと思う。
モダンデザインが目指してきた緊張感や黄金比やグリッドシステムの外側にある世界に心惹かれる。
システムが取りこぼしてきた、割り切れなさや曖昧さの中に大切な秘密が隠れているしたら、
計算によって導かれる絶対的なレイアウトよりも、何となく置かれた曖昧さに
心を打つなにかが隠れていても不思議なことではない。

緊張感が画面を構成するのでは無く、時間を孕んだような「ゆるみ」が画面をバランスさせて行く。。
ゆっくりとした時間をそのまま反映したような、どこか定まらないままの、
でもある一瞬、ピッタッと静止した様なレイアウトやバランスが捉えられないだろうか、、。

「ゆるみ」や「ゆらぎ」「かすか」「なんとなく」など感覚が捉える極限の微細性がそこにはある。
「なんとなくコレが好き」と言う様に誰もが意識することなく、その微細性を手にしている。

「なんとなく」の精度を極限まで高めると形式や型、道などに至るのかも知れない。
しかし、「なんとなく」なものを「なんとなく」のままに、曖昧なまま扱えたら素敵だと思う。

明け方の青い夢

青い光

明け方にこんな夢を見た。

雨漏りがしそうな古びた木造の軒先に、ガラクタの様なモノを売っている店があった。
品物を手に取ってみると、やはりずいぶんとくたびれた物ばかりが並んでいる。
果たして、こんな物が売れるのだろうかと訝しがっていると、
客がぽつぽつとやって来ては品物を手に取って熱心に眺めたり、頷いたりしている。
店主に適当に手にしたものを幾らか聞いてみると、
高い訳ではないがガラクタの割にはずいぶんと値が張る。

しかし、手に取る物、手に取るものが、みんな一様にどこかしら青い色が入った品物ばかりだった。
くたびれた着物には藍染めの青い柄が、ほこりを冠った額に入った日本画は
キキョウが青い花を咲かせている。
店主が取り出した、駄菓子は大きな青い飴菓子で、履いている下駄の緒も深い青色だった。
一様に青い物ばかりが売られているのだ。
たまりかねて「こんなものが売れるのかね?」と店主に訪ねると、案外に客が付いていて
なかなか良く売れると言う、そんなものかなぁと思っていたら目が覚めた。

野生の視線

野生の視線

ビルの谷間を歩いていると、ふと思う事がある。
原生人類がこの光景を目にしたときに、高くそびえるビルや道路はどんな風に見えるのだろう?
人類が誕生して間もないころに私たちの祖先はどのような驚きや不思議を抱えて
この世界を見つめていたのかという事が頭をかすめるのだ。
その時、私の目は「野生の視線」を通して、
原生人類の目にした世界が今も変わらずにそこに続いている事を発見する。
たとえ、コンクリートで世界が覆い尽くされてしまっても、
見つめる私たちが変化するだけで、世界のあり方が変わってしまうわけでは決してないだろう。

夜の散歩 : いま、此処にないものを想う

夜の散歩

夜の川辺に咲く花、そこに異界の雰囲気を感じてしまう。
まるで、彼岸に向って闇が口を開けているようにも見える。
向こう側の世界を想像するとき、「いま、此処にはない」何かに私の手は触れている。

しかし、昨日の事を思い出す時も、明日何をしようかと思い浮かべる時も、
遠くの誰かを想う時も、実は私たちはイマジネーションの縁に立っている。
「思い出す事」も「見た事もない新しい表現を生み出す事」も、
根底では大差がないのかもしれないと思った。
夜の散歩が私にそんな事を語りかけてきた。

内藤礼、佐久島、舟送り

内藤礼 返礼 舟送り

2006年の初冬に佐久島で行われた内藤礼さんの「舟送り」に参加した。
内藤さんの作品は見る(感じる)事がとても困難で、じっくりと作品と向き合わないと、
そこには本当に何も見る事すら出来ない。
実際に、ギャラリー小柳で「舟送り」の小さな土の舟を最初に見たときは、
何かを感じる事ができなかった。
だからこそ、わざわざ佐久島まで出かけてみようと思った。(遠かったなぁ、しかも日帰りで。。)

佐久島の弁天ギャラリーの二階で内藤さんから直接、親指の先くらいの小さな土の舟を手渡される。
土の舟には貝染めされた仄かな紫色の糸が結ばれている。
それを手に皆で海辺まで5分ほどの道のりを歩く。
手の中で小さな舟は頼りなく、壊れてしまいそうなので
そっと、そっと手の上にのせて包み込むようにして運んで行く。

手の中の舟を私が運んでいるいるのか、私が小さな舟に運ばれているのか、
なんだか不思議な心持ちがしてくる。
私という小さな存在も、この小さな舟のように何かに運ばれているのかもしない。
その時、小さな舟は私の魂を乗せる小さな器として私の手の上にあった。
そして、私の身体もこの小さな土の舟と同じだなぁと思った。
結ばれた糸を解き、海の波間に、土の舟を返す。一瞬で波にさらわれ、
何処とも知れぬ彼方の場所へと消えてゆく。

静かに、厳かな雰囲気のなかで50個の土の舟がそれぞれの手の中から海に返される。
その後一人づつ「タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)」という海辺に突き出す様に細長く、海水の入った作品に向かって息を吹きかけると、水平線と同じ高さに張られた海水は波となり海に向かって静かに向こう側へと溶けて行った。

確かな何かが分かる訳ではないが、何かを私の中で深く感じる事が出来た様な気がする。
その何かは上手く、言葉にはならないし、きっと言葉の外側にある何かだ。
そして、その言葉にならない何かが作品だとしたら、
在るのか無いのか分からないような何かに寄り添うしかない。それは祈りとよく似ている。
内藤礼の作品は強度と同時に困難さを内包して奇跡の様にそこにある。

気配の生まれる場所



ふと感じる「気配」はどこからやってくるのか?
ぼんやりと浮かぶ影が、人なのか、壁なのか、自分なのか分からないままに想像が膨らんで行く。
「気配」は「想像」と近いところにあり、「想像」は「記憶」のすぐ近くにある。
何かを「感じる」ことは、いつも私たちの手の中にありながら、
同時に手の届かない深い場所がその向こう側に広がっている事を、静かに示唆している様な気がする。

「見えないモノを見ること」は私たちの大切にしているテーマです。

目にうつるもの



ある晴れた日に、目黒川沿いを歩いていた。
ふと、川面に目をやると、水面に映る建物と空が光の点描になって川の流れに揺らめいていた。
建物は水の上では空と混ざり合い、光としてそこにあった。
光によって物を見る事が出来ているなら、
建物と空は光の粒子の中ではひとつながりに区別がないのではいかと思った。
水面の上の風景の様に私たちの知らないところで、
建物と空が混ざり合って溶けてしまう事もあり得るのではないだろうか?

以前、現代美術の展示を見た時にも同じような事を感じていた。
メモにはこうある。

「 光によって世界を観ることが出来ているとしたなら、
  私たちの存在が光の粒子へと還元される時、
  私たちの存在は世界に静かに溶けて行ける様な気がした。 」

私たちも光の中では空や建物とひとつながりに繋がっている。

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