夜の帳の降りるころ

夜の帳

ミネルヴァの梟の飛び立つ時刻。万葉集の時代なら、この夕闇に自身の運勢や恋の行方を占う時刻。
夕占(ゆうけ)あるいは辻占などと言われるその占いは、昼と夜のどちらでもない境界(間の時刻)に、人通りのある辻や巷、橋の上などに出て、行き交う人々が夕闇に紛れて誰とも判別のつかない黄昏(誰そ彼)の中で耳をすまし、流れ行く言葉の断片から自身の未来を占うのだ。

道行く誰かの言葉から未来を予測するとは、なんともいい加減で他力的に思えるが、よくよく考えてみると、そこに興味深い問題が横たわっていることに気づかされる。

沢山の流れ行く言葉の中から印象に残る言葉や、はっとさせられる言葉、あるいは気づきを促す言葉をすくい上げる行為は、私たちの無意識に眠る潜在的なリソースに触れるための行為でもある。
ある言葉に反応するには、あらかじめ下地となるリソースがなければ、なんの反応も起こりようがない。つまり、過去の体験や記憶が無意識へと沈み、あるきっかけで水面に浮かび上がるように意識に立ちのぼってくる。そのような無意識下のリソースが私たちの意識活動の全てを下支えしているだ。現代の社会では、顕在化した意識のみが大切とされ、無意識なんてユングやフロイトみたいな心理学のみで扱うものとしてその存在に蓋をしてしまっているのではないだろうか?

夕闇に紛れて自身の意識と無意識の境界をあやふやにし、曖昧にうつろう内なる自身の声にそっと耳を傾ける。そのような微妙かつ繊細な時間を、私たちは果たしてどれだけ手にしているだろうか?

夜の帳の降りるころ、ミネルヴァの梟の羽音にではなく、遠く万葉の時代の「意識」へと思いを馳せてみたいと思う。

comment

akabaeさん、コメントありがとうございます。
いったい、どんな風に届いているのかなぁ?と思ったりするので、
コメントいただけると本当に嬉しいです。

黄昏時に感じる気持ちは、きっと昔から変わっていないのでしょうね。
そう思うと、なんだか不思議ですね。
今見ている風景も、自分だけが感じているわけではなく、
昔の人が感じた何かも含まれているような気がして来ます。
夕闇の中では、自分と他人の区別も、現在と過去も、そして未来すらも、
その境界が曖昧に混ざり合っているのかも知れない、なんて思ったりします。

細々と書いているブログですが、また見に来て頂ければ嬉しいです。

はじめてコメントさせていただきます。
とてもいいことを教えていただいてありがとうございます。

黄昏時に、ぼんやりと無意識になって物思いにふけったり、
妙にセンチメンタルになったりするのは、万葉の時代から日本人がずっと大切にしてきたことなんですね。

行き交う人の言葉で自分の未来を占うなんて、ああ、昔の日本人ってなんて情緒があるんでしょう。

黄昏時というのは、時と時の境目で、自分がどっちにいるのかあやふやで、だから、余計に心が開放的になって、人の言葉を吸収しやすくなっているのかもしれませんね。

ふぇりち~たさん 、コメントありがとうございます。
私は万葉集は全然詳しくないのですが、、、読むと面白いですね。
偶然や夢や占、想いなどを今よりももっと近い感覚(実際的な感覚?)で
捉えているところに興味があります。
偶然ではなく「縁」という捉え方も素敵ですね。。

しかし、小学生で万葉集とは凄いですねぇ~。
私は子供の頃は本が苦手で、小学生の時はたぶん1冊しか本を
読んでいないんですね。。

月と夕占が一緒な歌を見つけました。

月夜には 門に出で立ち 夕占問ひ 足占をぞせし 行かまくを欲り

大伴家持が妻の大伴坂上大嬢へ返した歌のようですね。
う~んロマンチックですなぁ、、。
「袖振り合うも多生の縁」と昔の人が言ったように
道で人とすれ違い、袖が触れ合うようなことでも、
それは何度も繰り返された過去の世の縁によるもので、
すべては理由のないただの「偶然」ではなく、縁によって定められた「必然」
という解釈もあります。。
なので流れ行く言葉の中の印象に残る言葉で占うのは、
あながち間違いではない気がします。。
万葉集は、小学生だった頃に学校の図書館で見つけた一番好きな本でした。。
おませさんかな(笑)
恋文などによく雁の声が登場しますよね、、。
昔の人は雁の声に想いをのせて聞き入るような、そんな
静かな時間を感じていたのかと思うとちょっと羨ましいときがあります。。

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