小さな祝福

マカロン

先日、色々な色(味)のマカロンを頂きました。

色もカタチも、口に溶けて行く感じも、甘く可愛らしいお菓子ですよね。
お菓子ってそれぞれに、小さなしあわせをカタチにしたら
こんなだろうなぁ、、という姿をしています。

お菓子を怒りながら食べることって無さそうですし、、
普段なにげなく口にすることもあるけれど、
本来はおめでたいことや、嬉しいことがある時に口にするものなので、
その存在自体がなにか祝福されている感じがして、なんともいいですね。

イルミネーション

東京タワー

身近な建造物で無くなって欲しくない建物ってなにかな? と考えたら、
原美術館と東京タワーが頭に浮かびました。東京タワーは12/23に50周年を迎えたそうですね。
ずっと東京のシンボルとして、そこに居て欲しいですね。
最近の東京タワーは色々なイルミネーションに遭遇するので楽しいです。
でも、普通のがやっぱり一番いいかなぁ。

では、よいクリスマスを!

夜のバス:どこにもない場所

夜のバス

夜の闇を一層際立たせるように明かりを煌々と灯して、バスが路肩に横付けされる。
座席に人影はなく、遠く前の方に運転手がいるばかりだ。
掴まる人の無い吊り革の列も所在無さげに、整然と宙にぶらさがっている。
扉の閉まる「プシュー」っと言うあの独特な音の後、静かに夜へと滑り出す。

いつもの角を曲がった途端に、見慣れない夜の景色がつぎからつぎへと流れて行く。
いったい自分が何処へ向っているのか、ここはどの辺りなのか、走るほどに心細さが増してくる。
知った道でも、昼と夜では全く別の場所のような気がしてくるのだから、
知らない土地であれば、なおさらのことだ。
夜のバスには、どこか知らない場所へと私を運んで行く様な、なんとも心細い風情がある。

それは市内の巡回バスであっても、何処か遠い地へと私を誘って居るように感じるのだ。
その遠い地とは一体どこのことだろう?
それは多分「どこにもない場所」のことだ。ぼんやりとその無い場所を思い浮かべてみる。無い場所を思い浮かべてみることができるというのも、なんだか不思議なことだ。

夜のバスの心細さはきっと、その「どこにもない場所」と繋がっているのではないだろうか。
そして、その「どこにもない場所」への入り口は他にも案外と身近な場所にあるように感じる。
誰も居ない閉店後の夜のスーパーマーケットや、暗がりの中にぽつんと建つ電話ポックスに、
夜のバスや電車、あるいは目的もなく行く空港のロビーに、深夜の高速道路を走るタクシーの中に、
それらは、人々に見過ごされて、いまも日常の影にひっそりと佇んでいるのではないか?

そして、そこは物語やアートやデザインが生み出される場所とも何処かで繋がっている様に思う。

花を生ける人、花を見る人

生け花

さりげなく置いてある、生け花を見てふと思ったことがある。
「あぁ、花は美しいな」と見るなら、自然の中に咲く花をみるのが一番良いはずだが、
生けてある花には、それとは別のなにかが潜んでいる。
それは、とても当たり前のことなのかも知れないが、あえて見つめ直してみたい大切なことでもある気がした。

5万年前のネアンデルタール人の墓から花が埋葬された痕跡が発見されたという話がある。
学説では否定的な見方もあるが、その真相はまた別の話として、
そこから感じる私たちの心に動きの方に大切なことが潜んでいるように思う。
それは、花は誰かの為に摘み取られ、捧げられていると言うことだ。
また、仏前の花でも、今ではこちらに花をよく見える様に生けるが、昔は仏様の方に花を向けていた。
さりげなく置いてある、一輪挿しの花もまた誰かにむけて捧げられた花である。

生けてある花を見るとき、私たちは花の美しさだけを見ている訳ではない様に思う、
その花の向こう側にある美しさに心を動かされているのではないだろうか?
花を通して、その花を生ける人の「心の動き」の美しさを如実に見ている。

その様に花を見た時、それはこの世の中で一番美しいもののような気がしてくるのです。

空の色、薄色の空。

薄色の空

昼と夜の狭間、世界が青一色に染まる時間(青の時間)の少し前、その空もまた良い。
束の間に現われるうっすらと赤味を含んだ白々とした薄紫色の空。
日本の伝統色で言えば、薄色(薄い紫色)くらいの色合いだろうか、
ほんの瞬間に立ちあらわ現れる、なんとも微妙で儚い色彩のグラデーション。

消え行く色彩の最後に現れる、色とすら言えない様なうっすらとした色彩。
遠い彼方から届く便りのように繊細な色は、
どこか心細いような、甘く切ないような、形容しがたい感情の想起がある。
日が暮れてしまうことが心細く切ないというだけではない何かを、そこに感じているように思う。
それは、言葉にすることの出来ない、なにか遠い感覚だ。

夕焼けの様に派手な色彩もドラマチックな印象もない、
あまりにも繊細で瞬間に立ち消えてしま為に、きっと、気づかずに通り越してしまうよう空。
その、儚さゆえに、なにか心を揺さぶるものがある。

見ることについて

吉澤美香

ずっと気になっていた作家の絵を、部屋の壁に掛けることにしたのは、もう15年も前のこと。
掛けるといっても結構大きな絵だったので、当時住んでいた6畳一間のアパートの壁一面がその絵で埋まってしまった。それからというもの、毎日眺めることになるのだが、今でも見飽きると言うことがない。

絵を壁に掛けることが「見る」と言う事と向き合うスタート地点となった。
それまで閉じていた目をやっと開いたようなものだようなものだ。
「見る」ということは、容易なことのようだが、思いのほか難しいことでもある。
視覚的に見るというのなら、なんの事はないが、その先を見ようと思うと、
これがなかなかやっかいで、突如として「見る」と言うことの困難さと直面することになる。

自分がなにを見ているのか?目に映る対象からなにを感じ、何を思うのか?
そして、作家がなにを感じ、何を考え、そこに何を見ようとしていたのか?
絵を前にしたとき、この二つの視点の間に立たされることになる。

しかし、どんなに必死に見ても、あるいは長い時間をかけようとも、逆立ちして見ようとも、
見渡すことすら容易ではなく、ほんの一部をやっとの思いで見ることしかできないのだ。
また、見たと思ってもそれは検討違いな事もあるかもしれない、それなのに答えは何処にもない。
そこに、正解などなく、もちろん、終わりがある訳でもない。
ただ、分かり得ないということと、静かに向き合うしかないのだ。

また、「見ること」と「知ること」は別のことでもある。
インターネットで調べれば、その作家や作品のいろいろなことを知ることができる。
しかし、それは逆に「見る」ということ妨げることにもなりかねない。
情報が溢れている現代において、「見る」ということに寄り添うのは、なんとも難しい。
そして、「見る」と言うことは、その本質において「創造」すると言うこととイコールで結ばれているように思う。

※画像は吉澤美香さんの作品:へ - 16(部分)

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