その中心においてはむしろ混沌としている方がいいんじゃないの?

囲炉裏

囲炉裏に燃える炎を見ながら、ぼんやりとこんなことを思った。
私たちが何かを作る根源では、混沌としたエネルギーが常に火種のように、熱く燻っている。
フラットでシンプルな現代の中では、その様な混沌は影を潜めてしまっているかのように見えるが、
何かを作る時の心的エネルギーの中心では、理路整然とされていないある意味、無目的で無方向な過剰さや、偏執的な強さや、情熱が熱く渦巻いている。
全てが無目的で無方向では話にならないが、行為の根底においては分別をつけないままが良いのかもしれない。
大人になり分別がついてしまうと、いろいろなことを経験や知識と照らし合わせて、
このレベルなら作らないでおいて、またの機会につくれば良いと思ってしまうことがままある。
でも、全てが予定調和の中で何かを作るよりも、核となる大切な部分はあえて分析してしまわずに
衝動にまかせて「えいやっ」とやってしまうのが良い様な気がしている。

仕事でもトップダウンの予定調和で作って行くのは案外つまらなくて、効率は決して良くないが、
ボトムアップに行きつ戻りつしながら、混沌の中で作る方が、思いがけないモノが生まれて面白い。
囲炉裏に立つ炎のが、ガスコンロの様に真っ直ぐ燃えていたら、きっとちっとも面白くない。
何処行くのか分からない無方向な揺らぎがあるから、いつまで見つめていても飽きないし、
その混沌とした揺らぎの中にイマジネーションをかき立てる何かがある。

何かを作るその中心においては、むしろ混沌としている方がいいんじゃないかと思う。

青い東京タワー

青い東京タワー

先日、一夜だけ東京タワーが青くライトアップされていました。
11月14日の世界糖尿病デーに合わせてのライトアップだそうですね。
たった1日だけ現れた不思議な光景、見慣れた景色がガラリと一変して怪しく輝いていました。
23時近くの芝公園にもかかわらず、三脚を立てた人や携帯を向ける人などが沢山人いました。
見知らぬおじさんと東京タワーについて立ち話などをしたりして、暫しの異空間を楽しみました。

同じ日に東京の色々なところから、この青い東京タワーを見上げている人が沢山いて、
きっと生活の中の一瞬、ちらっと見たり、立ち止まったり、カメラを向けたり向けなかったり、
車の窓に流れる光景だったり、その一瞬の視線がこの鉄塔で交差したんだなぁと。
そして、自分もそれを見上げている、その同時性になんだか心温まるものを感じました。
皆さんは、どんな風にこのタワーを見上げていたのでしょうか?

夜の帳の降りるころ

夜の帳

ミネルヴァの梟の飛び立つ時刻。万葉集の時代なら、この夕闇に自身の運勢や恋の行方を占う時刻。
夕占(ゆうけ)あるいは辻占などと言われるその占いは、昼と夜のどちらでもない境界(間の時刻)に、人通りのある辻や巷、橋の上などに出て、行き交う人々が夕闇に紛れて誰とも判別のつかない黄昏(誰そ彼)の中で耳をすまし、流れ行く言葉の断片から自身の未来を占うのだ。

道行く誰かの言葉から未来を予測するとは、なんともいい加減で他力的に思えるが、よくよく考えてみると、そこに興味深い問題が横たわっていることに気づかされる。

沢山の流れ行く言葉の中から印象に残る言葉や、はっとさせられる言葉、あるいは気づきを促す言葉をすくい上げる行為は、私たちの無意識に眠る潜在的なリソースに触れるための行為でもある。
ある言葉に反応するには、あらかじめ下地となるリソースがなければ、なんの反応も起こりようがない。つまり、過去の体験や記憶が無意識へと沈み、あるきっかけで水面に浮かび上がるように意識に立ちのぼってくる。そのような無意識下のリソースが私たちの意識活動の全てを下支えしているだ。現代の社会では、顕在化した意識のみが大切とされ、無意識なんてユングやフロイトみたいな心理学のみで扱うものとしてその存在に蓋をしてしまっているのではないだろうか?

夕闇に紛れて自身の意識と無意識の境界をあやふやにし、曖昧にうつろう内なる自身の声にそっと耳を傾ける。そのような微妙かつ繊細な時間を、私たちは果たしてどれだけ手にしているだろうか?

夜の帳の降りるころ、ミネルヴァの梟の羽音にではなく、遠く万葉の時代の「意識」へと思いを馳せてみたいと思う。

横浜トリエンナーレ:三渓園

三渓園

横浜トリエンナーレに行ってきました。
といっても、メイン会場ではなく、内藤礼さんの作品が見たくて三渓園へ足を運びました。
園内に入ると、まわりをぐるりと緑に囲まれ、横浜に居ることを忘れてしまうくらいに趣があります。
展示のある方へと歩いてゆくと、谷間を霧が包み込んでいます。中谷芙二子さんの霧の彫刻です。
光が丁度良い感じで差し込み、なんとも幻想的な風景を作り出していました。
トリエンナーレ目当てではない方々も、霧が作り出す異空間を時を忘れて楽しんでいる様子でした。

そして、内藤さんの作品は小さな可愛らしい茶室に展示されていました。
最近、関心があると語っていた「タマ」や「アニマ」それらが強く打ち出されているようです。
説明すると、大切な何かがすっかり抜け落ちてしまうような、気配そのものが作品になったような、そんな作品でした。

メイン会場にも行こうと思っていましたが、庭園自体が素晴らしかったので、
すっかり観光気分でお団子をたべたりしながら、日が暮れるまで三渓園でのんびりとすごしてしまいました。
思いのほかのんびりとした良い休日になりました。

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