インタラクション ~ コミュニケーションについて

コミュニケーション

インタラクションによってどの様なコミュニケーションができるのか?
表情や身振りなどの言葉以外の手段によって意思を伝える背後にあることに興味がある。

表情が持つ情報は多分、スーパーコンピュータでも扱い切れないくらに膨大な情報量をもっている。
顔自体が持つ情報量に加えて、時間軸も入ってくるし、動的に変化する筋肉や目や口の動きと意味性、それらの前後関係や言葉との繋がり、相互の共通の記憶や認識、その場の状況や社会的な文脈などなど、あらゆる情報が今この瞬間のコニュニケーションと関わってくる。
しかも、その膨大な情報の中から、必要なものと不要なものが都合良く取捨選択されている。
認知における視覚情報の割合は80%以上とも言われているけれど、脳内活動における「見る」ということを考えると外からの視覚情報はたったの3%くらいに過ぎず、あとは脳内での記憶の参照などから見るということが作られているらしい。

想像しただけでも複雑すぎて、なんでコミュニケーションが成立するのか、不思議なくらいだ。
AI(人工知能)の研究が難しいのもなんとなく頷ける気がする。
ヒューマノイドロボット(人型ロボット)が何処となく切なく見えてしまうのも
コミュニケーションの問題の背後に広がる複雑さと困難さにあるのだと思う。

逆に考えれば、そこにはまだ手つかずの領域が広がっているとも言える。
デザインはコミュニケーションを扱う分野だといっても良いとすれば、
コミュニケーションの未知の領域が、デザインの未知の領域を切り開く可能性もあるかのも知れない。

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その時、白い光の中で、私は、

お月見:キャンドルナイト前夜



金曜の夜、月がとてもキレイだったので、部屋の明かりを消してお月見をしました。雲が月の上を通り過ぎて行くを眺めていると、幽玄というのは、こういう感じを言うのかなと思いました。
秋なら、お団子が似合いそうな月夜です。

100万人のキャンドルナイト

キャンドルナイト

本当は夏至の20時~22時でしたが一日遅れの今夜、自宅でのキャンドルナイト
雨の音を聴きながら明かりを消すだけで、いつもより本当にゆっくりとした時間を過ごすことができました。

キャンドルの光を見ながら、まだ少し先ですが、お盆の迎え火の事などを思い浮かべていました。
子供の頃、家の前で迎え火の焚き火をして、消したあとの煙の上を飛び越えて家に入ると言う習慣がありました。
先祖は焚き火の煙に仙人の様に乗ってやって来るんだなと、思っていたのでとても先祖というものが
近しい存在に感じられたものでした。

お盆やお彼岸は、彼岸と此岸が混ざり合う不思議な時間の中にあります。
そんな、わたしたちの習慣をたどると、中世を飛び越えて縄文時代まで遡ってしまいます。
縄文時代の中期には集落は円形にカタチ作られ、その中心にお墓を設けて、
夜になると集会をしたり踊ったりして亡くなった先祖と共にある様な暮らしをしていたそうです。
それが、集落の外にお墓が作られるようになると、外から先祖を迎える必要ができて、
それが盆踊りや、迎え火、送り火に繋がっていると、、。
さらに最初にお墓を作ったのは旧石器時代にまで至り、そこに人間としての最初の証を
見ることが出来ると文化人類学者の中沢新一氏がどこかで語っていました。

キャンドルの光は、そんな太古の世界から現代へ繋がる、気の遠くなる様な物語を語りかけてくるようでした。

トヨダヒトシ:in 四谷ひろば

トヨダヒトシ

旧四谷第四小学校 (四谷ひろば) の校庭でトヨダヒトシ氏の写真作品のスライドショーが行われた。
目に見えない何かに引き寄せられる様にして、偶然手に取ったチラシが今回のスライドショー告知だった。手にした瞬間「あっ」と思った、手の中で偶然が必然に変わる瞬間。

現れては消えて行く日常を印画紙に定着させることに違和感を覚えて、
今のスライドショーのスタイルを取っているという。

校庭に設けられた、巨大なスクリーンに淡々と写真が映し出されては消えて行く。
見たものがそのままにそこにある様だった。それは消えて行くことを眺める様な体験でもあった。
はっとする景色も、ごくありふれた日常の1シーンも、すべてが同等に等価に扱われ、
そして同等に過ぎ去り、決して手の届かない場所へと皆一様に消え去って行く。
私たちは、その様な中に居るのだと、そして、あらゆる瞬間が私そのものをカタチづくっている。
ほおずきの種も、猫も、特別な一日も、そうじゃない日も、見知らぬ誰かも、いつもの道も、
そして、写真に撮ったことも、撮れなかったことも、撮らなかったことも、
過ぎ去る一瞬一瞬すべてが私そのものなのだと、、、。

絶対的に過ぎ去る現在を意識することは、ある種の痛みを伴う。
でも、きっとまた観るだろうと思った。

日曜日、午後5時。

ビール

日曜日、午後5時。cokiyuさんとの作品づくりに中岡さん (bitztream) を迎えて3人での打ち合わせ。
中岡さんは、WEBのサウンドを数多く手がけられている、名うてのサウンドデザイナー。
とても豪華なメンバーになって本当にいいのかしらと少し興奮気味のワタクシ、、。
ゆったりとしたカフェで日曜日の夕方をビール片手に贅沢なひと時、なんだかとてもいい感じです。
一瞬一瞬が作品に繋がって行く大切な時間、何かがそこに現れてくる予感をふくらませつつ、
この作品がわたしたちみんなの中でかけがえのないモノになることを切に祈る。

書体散策:Bodoni ボドニ

Bodoni

書体(タイプフェイス)の世界はあまりにも深いので、私に何が書けるのかはまったく自信がありませんが、勉強も兼ねて少し触れてみようと思います。

どこに居ても、目の端に文字が入ってこないことがないくらいに、
文字は私たちの生活の随所に溢れています。
しかし、文字で書かれた意味や内容について考える事はあっても、文字自体について考える機会は意外と少ないのではないかと思います。
私もデザインの仕事に携わっていながら、つい文字の前を通り過ぎてしまいます。
自分も反省する部分が多いのですが、その原因の一つには文字(活字)を扱うことが当たり前になりすぎて、文字の扱いが少々おろそかになってしまっているのではないかと思います。
つまり、文字に対する愛情が足りないのではないかと、、実際に心に届く文字に出会うことは少ないですね。

今回取り上げるのは、みなとみらい線の馬車道駅の駅名標(柱用)。
書体はモダン・ローマン体の代表格でイタリアではなじみ深い「 Bodoni(ボドニ)」ではないかと思います。(違っていたらごめんなさい、今回はボドニの記事ということで、、。)
ボドニと言っても沢山の書体があるので、どの書体かちょっと分からないですが、
小文字のaのはねが、Monotype Bodoni Book に感じが似ています。

モダン・ローマン体は直線的なヘアラインセリフと力強い垂直の線(ステム)とのコントラストが美しい、18世紀中頃~19世紀初頭に全盛期を迎えた書体様式です。
Bodoniはイタリアの活字製造者ジャンバッティスタ・ボドニによって19世紀初頭に作られました。
オリジナルのBodoniはセリフが完全な直線ではなく、オールド・ローマン体に近い雰囲気を漂わせています。

ちなみに、みなとみらい線の駅名標は駅ごとに書体を変えている様です。


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降り積もった時間の場所



制作中の作品の展示場所を探しに横浜へ。
みなとみらい線に乗ってやってきたのは、一見「みらい」とは程遠そうな古い建物のスペース。
建物のあちこちがすり減り、たくさんの人や時間が通り過ぎていったことを物語っている。
屋上に通じる踊り場の窓から空を見上げてみた。
だれかがいつか見た空と、今ここにある空はこの窓を通して繋がっている。
そこに映る空のうつろいすら、降り積もった時間の中にあるようだった。

時間は過ぎ去るものでは無く、今、此処に降り積もるものなのかも知れない。

雨がつげるなにか

雨

今日は思いのほか天気が良いのですが、、、昨日、雨の中で想ったことを書いてみました。

霧のように細かな雨が、音もなく静かに降り降り注いでいる。
街も木々も人も、通りの隅に佇む猫も、皆一様にやわらかな雨の中に包まれている。
こんな風に、大気に包み込まれる様にして雨に濡れていると、
どこか意識の奥深く遠い部分をなにかが微かにかすめて行くようだった。
それは思い出す事すらできない身体の中に眠る記憶の断片。
私たちがまだ樹の上で暮らしていた遠い昔の、濃密な森の香りを立ち上げながらいつまでも続く長い雨の記憶、樹を降り、荒野を北上した時に遭遇したであろう、サバンナの慈雨。
見渡す限りの大地を覆い尽くすようにして、細かな雨粒が身体を静かに覆ったその感覚が
今も、皮膚の奥深くに眠っている様に思えてならない、、。

皮膚の上で感じるか感じないかの、ほんの僅かな雨の感覚がその微細さゆえに、
私の中でなにか知り得ぬものが眠っている事を告げているかの様だった。

あらゆる感覚器官が長い時間を経てかたち作られ、いま「私」として外界からの情報を受け取ることができているなら、その感覚の向こう側に、いつか感じた記憶が浮かび上がってくることもあるのではないかと思った。

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