野生の視線

野生の視線

ビルの谷間を歩いていると、ふと思う事がある。
原生人類がこの光景を目にしたときに、高くそびえるビルや道路はどんな風に見えるのだろう?
人類が誕生して間もないころに私たちの祖先はどのような驚きや不思議を抱えて
この世界を見つめていたのかという事が頭をかすめるのだ。
その時、私の目は「野生の視線」を通して、
原生人類の目にした世界が今も変わらずにそこに続いている事を発見する。
たとえ、コンクリートで世界が覆い尽くされてしまっても、
見つめる私たちが変化するだけで、世界のあり方が変わってしまうわけでは決してないだろう。

夜の散歩 : いま、此処にないものを想う

夜の散歩

夜の川辺に咲く花、そこに異界の雰囲気を感じてしまう。
まるで、彼岸に向って闇が口を開けているようにも見える。
向こう側の世界を想像するとき、「いま、此処にはない」何かに私の手は触れている。

しかし、昨日の事を思い出す時も、明日何をしようかと思い浮かべる時も、
遠くの誰かを想う時も、実は私たちはイマジネーションの縁に立っている。
「思い出す事」も「見た事もない新しい表現を生み出す事」も、
根底では大差がないのかもしれないと思った。
夜の散歩が私にそんな事を語りかけてきた。

内藤礼、佐久島、舟送り

内藤礼 返礼 舟送り

2006年の初冬に佐久島で行われた内藤礼さんの「舟送り」に参加した。
内藤さんの作品は見る(感じる)事がとても困難で、じっくりと作品と向き合わないと、
そこには本当に何も見る事すら出来ない。
実際に、ギャラリー小柳で「舟送り」の小さな土の舟を最初に見たときは、
何かを感じる事ができなかった。
だからこそ、わざわざ佐久島まで出かけてみようと思った。(遠かったなぁ、しかも日帰りで。。)

佐久島の弁天ギャラリーの二階で内藤さんから直接、親指の先くらいの小さな土の舟を手渡される。
土の舟には貝染めされた仄かな紫色の糸が結ばれている。
それを手に皆で海辺まで5分ほどの道のりを歩く。
手の中で小さな舟は頼りなく、壊れてしまいそうなので
そっと、そっと手の上にのせて包み込むようにして運んで行く。

手の中の舟を私が運んでいるいるのか、私が小さな舟に運ばれているのか、
なんだか不思議な心持ちがしてくる。
私という小さな存在も、この小さな舟のように何かに運ばれているのかもしない。
その時、小さな舟は私の魂を乗せる小さな器として私の手の上にあった。
そして、私の身体もこの小さな土の舟と同じだなぁと思った。
結ばれた糸を解き、海の波間に、土の舟を返す。一瞬で波にさらわれ、
何処とも知れぬ彼方の場所へと消えてゆく。

静かに、厳かな雰囲気のなかで50個の土の舟がそれぞれの手の中から海に返される。
その後一人づつ「タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)」という海辺に突き出す様に細長く、海水の入った作品に向かって息を吹きかけると、水平線と同じ高さに張られた海水は波となり海に向かって静かに向こう側へと溶けて行った。

確かな何かが分かる訳ではないが、何かを私の中で深く感じる事が出来た様な気がする。
その何かは上手く、言葉にはならないし、きっと言葉の外側にある何かだ。
そして、その言葉にならない何かが作品だとしたら、
在るのか無いのか分からないような何かに寄り添うしかない。それは祈りとよく似ている。
内藤礼の作品は強度と同時に困難さを内包して奇跡の様にそこにある。

bicameral world



カトウチカさんが参加するスクリーニングイベントを紹介します。

現代アートの最前線で活躍する映像作家を紹介するシリーズイベント。
<art meets Mac / bicameral world―ふたつでひとつの世界―
第4回:瀧健太郎 特集/東京・ヴィデオ・テクスチュアリング
4月26日(土)5:30 p.m.―7:30 p.m. 入場無料
アップルストア銀座店

参加アーティスト:カトウチカ、佐原和人、瀧健太郎、十一、永岡大輔、松本力
ライヴ演奏:寒川晶子(ピアノ)、中村容子(笙)、瀧健太郎(ビデオ)、渡辺裕紀子(作曲)

気配の生まれる場所



ふと感じる「気配」はどこからやってくるのか?
ぼんやりと浮かぶ影が、人なのか、壁なのか、自分なのか分からないままに想像が膨らんで行く。
「気配」は「想像」と近いところにあり、「想像」は「記憶」のすぐ近くにある。
何かを「感じる」ことは、いつも私たちの手の中にありながら、
同時に手の届かない深い場所がその向こう側に広がっている事を、静かに示唆している様な気がする。

「見えないモノを見ること」は私たちの大切にしているテーマです。

土曜日の夜 : cafe



munaさんとkeiさんのカフェ・イベントにお邪魔してきました。
なんとも温かく素敵な空間で、夜の神保町に、
そこだけに灯がともった様な、静かな賑わいがそこにはありました。
空から月が降りてきて、電柱の影で「失敬」とか言いそうな夜です。
munaさんとそのお友達の作る料理とkiyata君とシンコちゃんの作品を堪能しました。
素敵なイベントをありがとう。。

土曜日の午後 : cokiyu



アーティストのcokiyuさんと作品づくりの打ち合わせをしました。
話を進めて行く中で、新たなイメージが広がり、
これからどんな作品に育ってゆくか自分でも楽しみです。

cokiyuさんはflauというレーベルからアルバムをリリースされています。
その音楽は、私たちに大切な何かを思い出させてくれる様な深い響きがあります。
とても、とても、おすすめです。

目にうつるもの



ある晴れた日に、目黒川沿いを歩いていた。
ふと、川面に目をやると、水面に映る建物と空が光の点描になって川の流れに揺らめいていた。
建物は水の上では空と混ざり合い、光としてそこにあった。
光によって物を見る事が出来ているなら、
建物と空は光の粒子の中ではひとつながりに区別がないのではいかと思った。
水面の上の風景の様に私たちの知らないところで、
建物と空が混ざり合って溶けてしまう事もあり得るのではないだろうか?

以前、現代美術の展示を見た時にも同じような事を感じていた。
メモにはこうある。

「 光によって世界を観ることが出来ているとしたなら、
  私たちの存在が光の粒子へと還元される時、
  私たちの存在は世界に静かに溶けて行ける様な気がした。 」

私たちも光の中では空や建物とひとつながりに繋がっている。

水たまり~ノスタルジーへ



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水たまりに何か心惹かれるのは、きっと私だけではないと思います。
こどもの頃に雨の後に出来た大きな水たまりに長靴を履いて入っていった時の
あの感覚は今でもはっきりと思い出す事が出来ます。

また、今でも雨上がりの水たまりに長靴で入らないまでも
水たまりに映る風景に、はっとさせられることがよくありました。
そこにに映る世界はただの現実の映しのはずなのに、
その世界像から受ける印象はあきらかに現実とは異質な何かを含んでいます。

水たまりに遊ぶとき、そこは異界への入り口として、現実と非現実をつなぐ境界にあります。
そして、私たちを創造性の海へと誘うのです。

上の写真は「コンテクストデザインの1年展」に出品した作品です。
実際に水を張ったアクリルケースの中に「水たまり」の写真を沈めました。
展示中に写真が劣化して水に溶けて行きます。

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はじめまして

ホワイトライト

はじめまして「水色デザイン」です。
このブログでは、私たちが感じる「水色的なるモノやコト」を
日々の他愛のないことも交えつつ紹介して行きたいと思います。

私たちにとっての水色的なものとは、日常のすぐ隣にあるけれど
当たり前過ぎて見えなかったり、見落としていたりする事柄を発見する事です。
簡単な様でなかなか難しいことでもありますが、根気よく続けて行こうと思います。
その発見の喜びを皆さんと共有できたらと思っています。

どうぞ、宜しくお願いします。

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