無数の銀河

20110620

雨の夜を あるく。
傘の向こう側に、たくさんの光が 降り注ぐ。

雨粒 ひとつひとつに 映る 小さな小さな 光が、
星の光に 重なる時、
そのとき、雨の夜は 人知れず 無数の銀河となり、
私や あなたの いる 場所へと、降り注ぐ。

闇と光を 写した 無数の世界が 自由落下の 緩やかな 速度で、
つかの間を 漂う。
夜が育むのは、誰も 見たことのない 銀河の 生まれる 瞬間。
時間を持たない 小さな ため息のような、
遠くの 誰かの くしゃみのような。

生まれた ばかりの 雨粒が、
夜となって、わたしや あなたや、
誰かの 手のひらの 上に、
銀河の ひとかけらとなって、贈られる。

沈丁花:感覚の深淵を嗅ぐ

感覚の深淵

沈丁花の花が咲いた。一年ぶりに香るその花。

どんな香りだったかイメージしてみたものの、実際のその奥行きの深さに改めて驚かされる。
香りは花からやって来るはずなのに、まるで意識の深いところから立ち上がる様にそれは香って来た。
意識の中にある「香り」と現実の「香り」が一年ぶりに再会する瞬間がこの季節に巡って来るのだ。
一年という時間の中でイメージと現実のマッチングにズレが生まれ、そのズレの大きさに心が震えたのだろうか?
その香りはいつも決まって不意打ちの様に、意識を超えて何処か遠くから漂ってくる。

確かこんな香りだろうと想像してみると、鼻孔の奥の方で微かに沈丁花の香りが漂うような気がする。
いや、微かではあるけれど確かにふんわりと香りが漂う。
幻の様に、意識の中で生成された香りが鼻孔の奥の嗅覚受容器まで逆流してくるような感じがする。

「嗅ぐ」ということも「見る」ということも、実は目の前の感覚刺激のみで完結している訳ではない。記憶や意味の下支えがなければ、それが良い香りなのか、嫌いなのかすら分からない。今、触れている事象そのものを超えて、意識の中からあるいは意識以前の深淵から「香り」が立ち上がるのだ。
また、そのような意味において私たちの感覚は自分自身の経験のみで出来上がっている訳ではない。40億年という長い長い時間の中で先天的に刻まれてきた蓄積が ー 今まさに咲かんとする花の芳しい香りが、「私」という小さな意識体験を遥かに超えた生命記憶として ー 奇跡のように結実する。

つまり「私」が出会い感じる事象は奇跡の連続の上に成り立っているとも言える。
この瞬間に感じる感覚の中に、生命の起源として活動を始めた細胞の記憶が含まれていても不思議はないのではないか? 降り注ぐ太陽の光や熱に、そよぐ風の感触や、ふと感じる懐かしさの中に、それらは遍在している様に思えるのだ。

そのようなことを感じた時、ベルクソンのいう「薔薇の匂いを嗅いで過去を回想する場合には、薔薇の匂いが与えられたことによって過去のことが連想されるのではない。過去の回想を薔薇の匂いのうちにかぐのである。」という言葉が腑に落ちる気がした。
沈丁花の香りを通して意識の深淵に眠る何かが、その内から生成されるようにして香るのだ。

香りの中に感じるある感慨が「私」という限定された経験の外にもあるのだとしたなら、
「私」と「あなた」は同じ感慨を知らず知らずの内に共有していることになる。
では「私」と「あなた」を隔てているもの何か?
生命記憶という深淵において「あなた」と「私」は確実にどこかで繋がっている。
そして、その隔たりは、ほんの僅かなものに過ぎないのではないかと思うのです。


一年ぶりに香るその花が、言葉の代わりに「香り」通して告げたのは、そのようなことだったように感じたのです。また、生命の起源から捉えれば、「あなた」も「私」も「沈丁花」も大した違いはないよ、と言っているようにも思えるのです。


関連記事:「沈丁花の香りの中で。」 
関連記事:「薔薇の香りと記憶」

土偶:祈りのカタチ

国宝縄文のヴィーナス

しばらく前に、東京国立博物館へ「国宝土偶展」を観るために足を運びました。
そんなに人出は無いだろうと思って会場に向ったのですが、なかなかの盛況で静かに土偶と向かい合うという訳にはゆきませんでした。

まず、展示会場に入ってすぐの場所に、縄文早期の土偶が展示されていました。
頭、胴体、手、足、乳房と非常に単純な造形のわずか4センチ足らずのとても小さな、そして素朴な土偶。

指先で小さく作られた形は、手仕事の合間にふと手が遊んで思いを形にしたのか、
深く閉ざされた雪の中で春を待つ様な思いで作られたのか?

もちろんその詳細を知る由もありませんが、
思いがそのままカタチになっていることだけは見て取ることがでました。
その造形を見て強く感じたのは、子孫繁栄の思いもあるでしょうが、出産に対する無事への願いが込められているのではないかというでした。
カタチの中に込められた、無事を願う思いは祈りそのものではないでしょうか。
その、祈りの強さが土偶のカタチに現れていて、そこに縄文時代に生きる一個人の心の震えの様なものを見た気がしました。そして、それは時代を遡るほどに強く現れていように思うのです。
縄文晩期の、あの宇宙人の様な形をした遮光器土偶の緻密な造形や不思議な形には驚かされますが
初期の土偶の中にある、心の震えの様なものは時代とともに薄れて形式(スタイル)の中に埋没し薄れていってしまうように感じるのです。

「国宝土偶展」には展示されていませんでしたが、さらに時代を遡ると人のカタチが薄れ、十字の中心に窪みを作った、より抽象的な人型が土偶の最も初期のカタチとされています。
一般的な説では土偶は魔除けなど信仰の対象として作られたとされていますが、本当のところはまだはっきりとはわかっていないようです。

また、その分からないことこそが想像力をかき立て、遠い時代へと私達をいざなうのです。
答えの無い未知へと向き合う時に私達は対象に、そっと心を添わせる事で何かを感じ取る事ができるではないでしょうか?もしかすると自分の先祖だったかも知れない誰かが作った土の塊を通して時間も空間も越え、その人の心に触れる事ができるのです。

そして、作り手の思いを見い出したとき、そこに込められた何かによって私達の心へと響くのです。
その込められた祈りこそがモノに命を与え、存在の強さを生み出しているのではないかと思うのです。
私達が普段何気なく手にするモノの中に、なにか感じ入る事があるとするならば、それは作り手の祈りの様な心の動きを無意識に感じ取っているのかも知れません。

※写真は「国宝縄文のヴィーナス」のフィギア

午後の光

午後の光

静かに降り注ぐ午後の光。
過ぎ去って行く時間が、一瞬の中をいつまでも漂うように空間に浮かび、
光はその瞬間を永遠に変えてしまうかのように振る舞っていた。
影の中に浮かぶ手のひらが捉えるのは、その一瞬の痕跡。
微笑みも言葉も存在も、すべては光の中を移ろい、瞬間の中へと刻まれて行く。
空間に織り込まれたそれらは、次の瞬間と交わるとこで
小さなきらめきとなり、光の中でそれは、あなたとなる。

旧フランス大使館(No Man's Land):カオスの窓辺

旧フランス大使館_02

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建物が取り壊されるとのことで「No Man's Land」が開催中の旧フランス大使館へ足を運んだ。
そこには、大量の作品とごった返す人の波で混沌としたエネルギーが渦巻いていた。
しかし1957年に建てられ老朽化した建造物は、それとは対照的な雰囲気を漂わせていた。
窓から差し込む光の中、建物自体が静かに物思いに耽っているような、去って行く前の束の間の時間がそこかしこに濃厚に立ちこめていた。賑わい立つ空気と静謐な時間がせめぎ合い、いずれお祭り騒ぎも終焉を迎え空白の空気が蜘蛛の巣のようにこの空間を隅々まで覆いつくすことだろう。
文化祭の終わった後に大道具が校舎の片隅に打ち捨てられるように、盆踊りの音頭が途切れ人影が一人また一人と闇のなかへと吸い込まれ溶けて行くように、、。
いつしか、明かりは消され、空白の気配だけが無音の耳鳴りとなり辺り一面に鳴り響く。

きっと、カオスの窓辺から見る景色は、限りない静けさに満ちていることだろう。

※ちなみに、展示作品がほとんど映っていませんので「No Man's Land」展の参考にはならないと思います、、、。

内藤礼:すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している

rei-naito

鎌倉の神奈川県立近代美術館へ内藤礼さんの作品を観るために行ってきました。
会場である鎌倉館は鶴岡八幡宮の境内にあり、1951年に作られた日本のモダニズム建築を代表する
建造物です。立地と言い、歴史と言い、その空間でどんな作品に出会えるか、半年ほど前から
ずっと楽しみにしていました。

内藤さんの作品は、見た目は繊細で儚い印象があるけれど、その作品が内包する触発力には
観る(体験する)人の認識を揺るがすような強い意思の力を感じます。
しかし、同時にそれらは作品なのか判別のつかない微細性を通して、
私達の想像を越えた場を作り出しているために、それらを受け止める事が出来ずに
見過ごして、通り過ぎてしまう様な不確かさの中にあります。
それらは、そもそもそこに物質として存在して居ない可能性もあります。

果たして、私は一体そこで、何を見ようとしているでしょうか?
ある種の肯定的な思い込みを携えて、祈る様な心持ちで展示室の扉を開けると
薄暗い空間に点在する光を目にしました。
がらんとした空間を満たす虚ろな光の中で、展示ケースに陳列され物体は
果たしてどのような役目を持ち、その場に置かれているのか?
物体はただ空虚にそこに置かれたモノとして有るだけで、何かを伝えてくる気配がありません。
肝心の何かを掴むことが出来ずに、私は、薄暗い空間の中で、思わず途方にくれてしまいました。
祈る様な心持ちは時間とともに、すこしづつ薄れて闇に紛れて行く様でした。

しかし、その光の満ちた通路に足を踏み入れた瞬間、すべてが一つの大きな物語として、
そこに立ち上がる気配の連なりとして、それらの一端をはっきりと感じる事ができました。

その時、私たちはそこに有りながら、もう一つの存在としての私に出会うことになるのです。


内藤礼
すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している
神奈川県立近代美術館 鎌倉
2009年11月14日~2010年1月24日まで

関連記事:内藤礼、佐久島、舟送り

小さきものたち

小さきものたち_1

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人は大きなものを前にした時に感動する。海の真ん中で水平線が360度ぐるりと繋がった時、
グランドキャニオンの雄大な風景を前にした時、万里の長城を前にした時。
しかし、万里の長城の大きさだけに感動している訳ではない、大きなものが小さいものによって
積み上げられたことにこそ、より大きな感動があるように思う。
また、宇宙の大きさだけに無限を感じている訳ではない。その大きさに対して、自身の小ささに
想いが至った時に、その対比におののくのではないだろうか?

分かりやすさの背後へと押しやられてしまった、密やかな何か
言語によって切り捨てられてしまった、言葉にならない感覚
技術によって忘れ去られてしまった、情報化されないものたち

大切なものは、大きなものによって隠された小さなものの中にこそある。
かそけきもの、見えないもの、隠されたもの、掴めないもの、私達の存在の様にはかないもの。
その様な小さなものの中にこそ、かけがえのない何かは宿っているのではないでしょうか?

また、その様な、小ささそものを見つめてみたいと思うのです。

ディーター・ラムス Dieter Rams

Dieter Rams

府中市美術館の「純粋なる形象 ディーター・ラムスの時代―機能主義デザイン再考」展に行ってきました。

ディーター・ラムスはブラウン社のデザインを1955年以来、40年以上にわたり500点あまりを手がけて来ました。その影響を直接的あるいは間接的に受けていないプロダクトデザイナーはいないのではないかと思えるほどに、その製品群は強い魅力を今もなお放ち続けています。
それらは、ただ単に形状を着せ替えただけのモダンなデザインやシンプルなだけのミニマルなデザインとは一線を画しています。そこには機能を追求した先の、製品のあるべき姿をみることが出来ます。
それは、機能を追求して到達した簡素さと、佇まいの美しさを兼ね備えています。

そして、その徹底したデザイン哲学は、消費を賛美するような時代に有っても、すでにエコロジカルな視点での「もの作り」がなされています。その様なデザインの哲学は氏の信条「Less but Better(より少なくしかしより良い)」と言う言葉に良く現れています。また、その哲学を見事に現しているデザイン史に残る名作「SK4(白雪姫の柩)」が氏のデビュー作であり、また、その思想が現在まで貫かれつづけていることに驚かずにはいられません。
そしてまた、そこに日本的な「簡素の美」に通じるものを見つけるのは容易なことだと思います。

「作る」と言うことや、「使う」と言うこと、また「デザインがすべきこと」の答えの一つが、そこに製品のカタチとなって示されているのではないかと思いました。


ディーター・ラムス「良いデザインの10原則」 (覚え書きも兼ねまして、、)

Good design is innovative.
Good design makes a product useful. 
Good design is aesthetic. 
Good design makes a product understandable. 
Good design is unobtrusive. 
Good design is honest. 
Good design has longevity. 
Good design is consequent down to the last detail. 
Good design is environmentally friendly. 
Good design is as little design as possible. 

良いデザインは、革新的である
良いデザインは、製品を使いやすくする
良いデザインは、美的である
良いデザインは、製品を分かりやすくする
良いデザインは、謙虚である
良いデザインは、誠実である
良いデザインは、恒久的である
良いデザインは、細部の細部まで一貫している
良いデザインは、環境に優しい
良いデザインは、できるだけ少なくなる

七夕の月と風

七夕の月_1

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七夕の夜に天の川は見えなかったけれど、月がきれいに出ていた。
風に揺れる葉の音が記憶の中の笹音と重なり、色とりどりの短冊がひらひらと揺れるのが目に浮かぶ。
子供の頃に、毎年のように書いた願い事がなんだったのかは、思い出すことはできないが、
いまも、この風に吹かれて沢山の願い事がゆらゆらと揺れているのだろう。

過去に向って願う人は居ないだろうから、人は未来に向かって願うのだ。
当たり前のことかもしれないけれど、願うことによって未来に繋がることは確かにあると思う。
七夕というと、なんとなくファンタジックで子供だましのように思えるけれど
願うことの向こう側に広がる何かは、きっとあるのだろう。
七夕の願い事なんて、、と、すっかり油断してしまっていたけれど、
その風習の中には、人が生きて行くことの切実さや希望や可能性が見え隠れしている。
願うことや祈ること。それは、人が生きる上での本質的な命題を含んだ大切なことなのだと思う。

そんなことを、七夕の夜の風が運んで来たようだった。

記憶の中の風景

記憶の中の風景

それは、いつか見た 記憶の中の風景
通り過ぎる一瞬の中に 降り積もる 光の集積
どこか、遠くを見つめるように ぼんやりと 曖昧さの中に 溶けてゆく 
消えてしまった香りのように 空白の気配だけが 音も無く 佇んでいた

過ぎ去ってゆく、それらは 小さな 痕跡をのこして
気化する液体のように、光の中へと 帰ってゆく 

交差点や歩道橋の上で、あるいは、眠りに落ちるその一瞬に
水中にキラリと光る 魚の群れのように 現れては 消える

その、他愛のない 光の集積 が ぼくを きみを かたちづくっている
小さく風が 吹けば 光のかけらとなり ぼくも きみも 空へと散ってゆくだろう 

その時、そこにいるのは、君だったのか、ぼくだったのか

すべての境界を越えて 曖昧さの中へと 帰ってゆく

反転に向って:養老天命反転地



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荒川修作の作品もことばも挑発的で刺激的だ。
しかし、その根底に流れる思想は、地球の未来を憂いて、その未来に希望を切り開いて行こうとする科学者の様だ。環境問題や経済活動など、このままでは地球は立ち行かなくなる。刻々と「死」へと向かう人間の宿命を反転させようという試みが、この養老天命反転地だと言う。

迷路の様な建物を抜けると、「昆虫山脈」という岩山が現れ、その山を越えると、
岐阜県のカタチをした屋根を持つ「極限で似るものの家」が出現する。
その超位相的な空間に感覚を揺さぶられる。

平らな足場の無い空間は、身体のバランスをバラバラにし、感覚を分断するかのように、
そして、視覚も平行感覚も、目眩にも似た揺らぎの中で、ゆるやかに再構築されて行くようだ。
急勾配にそそり立つ、「精緻の棟」に更なる目眩をおぼえつつ、その急勾配を登りきると、すり鉢状の巨大な空間「楕円形フィールド」が背景に養老山地を背負って現われる。それは、まるで未知の惑星にたどり着いたかのような、異様な光景だ。

そして、そこには5つの日本地図の形状が暗号のように、配置されている。
日本の中心に位置する岐阜県で、若返りの泉があるとされる養老伝説の地に、天命を反転する為の場所があるのだ。

この、なんともアバンギャルドな空間には、GWということもあり、家族連れで賑わっていて、まるでアスレチックランドのようだ。みんな、この不可思議な空間を楽しんでいる。
子供は本来の野生の力を取り戻したかのように斜面を滑り、大人も童心に帰って崩しそうになるバランスを立て直す為に必死にダンスを踊り続けている。

その傾斜に揺さぶられる身体の事について、荒川修作はこの様なこと言っている。
「バランスを崩したとき、人はつくられた常識が取り除かれて五感だけとなり、新たな地平を知る。」
と、そしてさらに、
「君がそこに入ることで、何十人という気配が生まれるんだ、10億年後にそこに君が現れるとしたらどうする。斜面で君の体は後ろに倒れそうになるだろう、重心を後ろに倒した時に、バランスを取ろうとして、この空間と時間とその場所と話はじめるんだ。その環境と空間、時間を使って接触の為のイベントを沢山作っているんだ。」

時間や空間という概念を越えて、身体が感覚が、私という存在が、世界に向って開かれて行く。
記憶の中に存在するイメージの様に、分断されバラバラとなりそして再構築された私の存在は、
パラレルに続く無限の中を、今も彷徨っている。



瞑想の空間

石庭

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4月の初め頃に京都に行った時のことです。(改めてUPしました)


はらり、はらり、と桜が散っていた。
ここは龍安寺の石庭。白い砂利(白川砂)が敷き詰められ、所々に島のように石が置かれている。
実際に来てみると、想像していたよりも随分と小さい。なんとなく「あれ?」と思ってしまう。
TVCMなどのイメージから、実際に見るとがっかりする人も多いのではないかと思う。
私の横でも「どこがいいのかさっぱり分からんなぁ、、。」と年配の女性が連れの方に小声で漏らしているのが耳に入ってきた。事実、その昔は石庭より、池の方が人気があったそうだ。
白くて整然としているという意外は、一見しただけでは、退屈この上ない庭なのは間違いない。
塀の向こう側の桜が美しく咲いているが、それ以外は取り立てて面白いものがある訳でもなく、
池も無いし、風に揺れる草もない、有るのは身動き一つしない石ばかり。そのように静止した庭に、
いわゆるところの面白みがあるはずが無い。なので、「さっぱり分からん」というのは的外れではなく
いったって素直な感想だと思った。

しかし、そこで諦めてしまっては、ここまで足を運んだ甲斐がないので、
ここはひとつ、じっくりと、庭を見つめてみることにした。
もちろん、じっと見つめてみても、庭は静止したままなのは変わらない。
突然、無限の広がりが目の前に現われる訳ではない。石庭の白砂が海に見え始める訳でもない。
だが、座って見続けていると、不思議と狭さは感じなくなってくる。
空間は白い砂利の平行線が手前から奥に向って続くことでパースペクティブを強調するように作られている。
自然にこのようになっている訳ではなく、誰かが、禅の修行の為に意図的に空間をつくっているのだ。
そして、ゆっくりとその空間の仕掛けが効き始める。

動きの無い空間に身を置く事で、外から来る動きが強い印象を持ち始める。
急に時間が引き延ばされたように緩やかに感じられる。
風に吹かれ舞落ちる桜の花びらが、まるで止まった時間の中を散っているようだった。
また、春先なので羽虫もやってくる。その、小さなものが生き生きとした表情をもった存在として強調されて見えるのだ。

そして、さらに時間がたつと、庭自体に動きがないことで、こちらの想像が動き始める。
空っぽの庭は、イメージへ向けて飛び立つ滑走路になる。
その時、そこは海にも砂漠にも、別の惑星にもなり得る。
しばらく、ここに身を置くだけでもそれだけのイメージの跳躍があるのだから、何年も修行をすれば
それこそ、無限の広がりを自身の内側に見いだすことになるのだろう。
この石の庭が荒れ狂う厳しい海にも、穏やかな波一つない湖面にも見えることもあったのではないだろうか?そして、一年を通して変わらない空間に、一年を通して変わって行く自身の心を映し出すこともあるのだろう。
庭が止まり続けることで自身の心の方が動くのだ。

なんと良く出来たしつらえなのだろう。
ここは、まさに瞑想の為の空間であり、創造性への入口として機能する装置なのだった。

Claritas : 花人間/羽鳥智裕

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HARRY(ハリ)さんの活け花のイベントにお邪魔してきました。
kiyata君の作品世界にハリさんの花が咲き乱れ、
メキシコの死者の日をテーマにしたmunaさんフードが花を添え、
花人間と化したtruncoさんが出現した圧倒的な場がそこに在りました。

こちら側から向こう側へと、紡がれる
息を呑む、耳をすます
匂い立つ空間に、世界が静かに開かれてゆく
ジャングルのように、濃密な気配が立ちこめる
死者の影と生者の影が入れ替わり
戯れと、うつろいの中に、留まる事なく
永遠の中に、開かれたそれは、
いつしか、あなたを通して花となる。


今回、水色デザインではインビテーションの写真と言葉で
ハリさんとコラボレーションさせて頂きました。

「Claritas」
反転に向って
僕たちのすべてを呑込んで行く
光と影が混じり合い
君と僕は入れ替わる
僕も君も一粒の砂粒だった
僕も君も一粒の花粉だった

その一瞬に向って
月が夜の中を昇って行く

夜を越えて、そこに光が届くとき
僕と君の風景は混じり合う
そして、まだ誰も目にしたことのない
光景が現れる

君も僕も光の種子になる
君も僕も一輪の花となる

反転に向ってすべてが混じり合い
なにもかもが、一つになってゆく



・花を活ける人:羽鳥智裕
・インスタレーション&オブジェ:kiyata
・フード&オーガナイザー:muna
・花人間:trunco
・花:みんな
・2009.4.18 at kiyata邸

かすかな輪郭

夜の輪郭

遠い惑星からの わずかな光が、かすかに 君の輪郭を留めている
わずかな光は、闇に紛れた川へと小さく落ちて、遠く海へと流れ着く

明かりを消した夜の中で、空に手をかざしてみると、
だれもいなくなった街に 輪郭の無い影が落ちる

光をすくって、巻き上がる風に、粒子の渦が生まれ、
君は遠い空に、小さな無数の銀河が生まれる瞬間を垣間みる

かすかな輪郭は、次第に夜の輪郭へと移り変わり、
いまでは、もうその見分けは ほとんどつかなくなってしまった。

わずかな光もいつしか、眠りに着くように、海底へと沈んで行く

そして、音も無く 過ぎて行く、この瞬間の中に 遠く鼓笛の音が
幻のように浮かんでいた。

花の人、花の場所。

花-1

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HARRY(ハリィ)さんの活け花に遭遇した。

花は、命は、留まることがない。
その留まることの無い、花を撮る、撮りたいとう思いは、一体どこから来るのだろう?
その留まることの無いものを留める行為は、一体なんなのだろう。

ハリィさんの花を撮るとき、その事と向き合う必要に迫られ、しばし考え込む。
花に聞いてみたりなどするが、自分へとその問いは返ってくるばかりだ。

撮った瞬間から、その映り込んだ花は、今(現在)から切り離され、
そこに有った一瞬として、私の手の届かない場所へと不可逆に断絶されてゆく。
手元に残った写真に触れても、その瞬間へと戻ることは決して出来ない。
むしろ、そのことを確認するかのように、それを覗き込む。

その過ぎ去ってゆく一瞬一瞬が、まばたきの様に繰り返されゆくだけだった。

しかし、それはまた、同時に目の前に現われる、未知へと再び向かい合うことでもある。
未知へ向う為に、シャッターを切る。
そしてそれは、過ぎ去って行く一瞬の向こう側に、奇跡のように現われては消えて行く。

花がそんなことを、そっと教えてくれた。

光のかけら

光のかけら

ばらばらになった 風景が、午後の光に 注がれる
分散する 光のかけらが 空中をゆっくりと 漂い、
手の平の上に 降り積もる。

きらめく光に 耳をすましてみると、
網膜の裏側で 乱反射する光の音が かすかに
聴こえてくるようだった。

いつまでも繰り返される 静かな呼吸の中にも、
発せられた ことばの間にも、午睡の隙間にも、
光のかけらは、小さな傷のように織り込まれ、
風景との境界は、しだいに曖昧になって行く。

そして、いつか、ばらばらになった 風景が 
あなたの 記憶の中で結ばれるようにと、

そっと 小さく目を閉じる。

ただ、なんとなく。

花

なんとなく が、いいと思う。
なので、なんとなく、花の写真。ここに花を活けるような心持ちで、、。

意味よりも、感覚を頼りに、してみる。
コトバよりも感情を、信じてみる。
その、分からない何かを、
解釈できない何かを、見つめてみる。

そして、なんとなく で、いいと思う。

夜の気配

夜の雨の光

夜の雨、
ビニール傘の向こう側で夜の雨が光の粒になっている。
光は、夜の気配を含み、光にまぎれた夜は
アスファルトの上へ滑るように、雨粒の速度で自由落下する。

通りを行く人々は アスファルトの上の夜を越えて
それぞれの眠りにつく場所へと帰って行った。

アスファルトの上の夜は、朝の光と共に
その気配を消し、朝に溶けて行くのだろうか?

翌朝、
雨の跡が残る道を歩くと、
夜の気配は、湿ったアスファルトの上に残っているようだった。
冬の朝の霜柱の様に、靴底が夜の気配を踏みしだく。

道の上で、朝の光に照らされた夜の気配は、
蒸気とともに朝の空気の中を、空へと昇り
密かにそっと、消えて行く。

都市の音楽

都市

東京ミッドタウンの奥の方(21_21 DESIGN SIGHTの辺り)は人影もまばらで広々としている。
敷地内には水路が敷かれ、ところどころにベンチも設置されて、ちょっとした散策が出来るようになっている。
その静かな水音と混ざり、どこかに仕掛けられたスピーカーから環境音楽が流れいるようだ。
なんとも心地の良い、静かなノイズ音で作られた静謐なサウンド。
スピーカーから音がしているのだとばかり思っていたら、
裏手の建設現場から鳴っているノイズ音が音楽の様に聴こえているだけだった。

大きなクレーンが夜にも関わらずに、緩やかなモーター音を微かに立て、
ワイヤーのシュルシュルと巻き上げられるその音が、笙のような雅な音を響かせている。
アブストラクトなメロディは、鉄骨が小さくぶつかり合って、奏でられていた。

果たして、どこから音楽で、どこまでが音なのだろう?
だれかが、意図して奏でなければ、それは音楽とは言えないのだろうか?
音楽という名前がついていなくても、それを音楽と捉えたなら、それは音楽と言えるのかも知れない。
演奏者は巨大なクレーンか、それとも都市そのものか?

しばらくの間、ベンチに腰をかけて、その都市の音楽に耳を傾けた。
その場に居合わせた人達は、その素敵な音楽に、気づいただろうか?

小さな、おもてなし。

桃の花

家の近くに、感じの良い、小さなカフェを見つけました。
駅へ向うのと反対側だったので、すぐ近くに出来た事に半年ほど気がつきませんでした。
店内のスペースの半分は、かわいい手作りの雑貨が展示販売さています。

テーブルの上には、竹に切れ込みを入れた簡素な手作りの花器に、桃の花がさりげなく
季節の移り変わりを告げていました。
どこか、素朴な花器の仕上がりが、手のぬくもりと作ることを楽しんだ痕跡を窺わせています。
また、そのさりげない心遣いに、お店の方の人柄が現れているように思いました。

デザインの業界でも(特にWEBにおいて)、ホスピタリティ(おもてなし)ということが良く言われていますが、数字やマーケティングや販売促進の上に成り立った「おもてなし」の中に果たして、
本来の心遣いの「こころ」の部分は抜け落ちてしまってはいないのだろうか?
日本の伝統文化(茶の湯や能など)の引用をスタイリッシュに活用する中に果たして、
人としての大切な何かを何処かに忘れて来てしまってはいないか?
仕上がりの見栄えばかりに気をとられて、作る過程の中にある喜びを、ないがしろにしてはいないだろうか?

何ひとつとして「俺様を見ろ」的なところのない、小さな小さな手仕事が、
そんなことを、わたしに静かに語りかけて来ました。

空の下で

空の下で

少し高い場所から空をみるだけで、いつもと随分違った気分になる。
「ここは、地球の上だ。」ということを強く思う。
空や雲が、大気が僕たちを無限に広がる真空の宇宙空間から守ってくれている。
日常にかき消されて、ついつい忘れてしまうけれども、僕たちはみんなこの空の下にいる。

そんな気持ちを忘れない為に、こんな→サイトを作りました。
(水色デザインとしての仕事ではないけれど、プランニング・アートディレクション・コピーライトなどを担当しました。)

沈丁花の香りの中で。

沈丁花

いつもの道を曲がると、不意にどこからともなく、沈丁花の香りが漂ってくる。
まだ寒い空気の中で、その周囲の気配だけがほころんでいるかのようだ。
冬の中に幻のように香るその匂いは、なんとも微かで、今にも消えてなくなってしまいそうに儚い。
そして、毎年きまってその不意打ちに、なぜだか心のどこかを締めつけられるような切なさで、
胸がいっぱいになる。
それは大人になるにつれて、だんだんと薄れてしまった子供の頃に感じていた世界の感触とよく似ている。
しかし、沈丁花の香りにまつわる特定の思い出がある訳ではなく、
それはもっと本能的な何かで、何処か遠い記憶や感覚に繋がっているような気がしてならない。

そう、いつもの道を曲がると、私は私の中にある未知の何かと密やかに出会うことになるのだ。

フラクタルな野菜を食べる僕は、食べているのか、食べられているのか?

ロマネスコ

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クマゴローさんから、なんとも奇妙な野菜が届きました。
ロマネスコ(Romanesco broccoli)というカリフラワーとブロッコリーのあいのこ(?)らしいです。
カリフラワーの一種で味や食感はどちらかというとブロッコリーに近いです。
そして、なにより驚くのは、この野菜のカタチがフラクタル形状をしているのです。

食べながらも、フラクタルな形状が立体的に迫って来る。
部分の中に全体の形状が入れ子状に渦をまいて、ぐるぐると巻き込まれて行く。
もしも、宇宙がこのカリフラワーとブロッコリーのあいのこの野菜と相似だとすると、
この野菜を食べている私は、野菜の形状の一部として、この形状の中に居て、
私を含むその野菜もまた、私が食べて、その私もまたその一部として野菜に組み込まれ、
またその野菜を食べる私へと飲み込まれ、合わせ鏡のように、果てしなく永遠と連なって行く。

フラクタルな野菜を食べる私は、果たして食べているのか、食べられているのか?
なんだか、目の回るような思いだ。

この野菜を口にするとき、私たちは多次元宇宙の無限の連なりの中に、
知らず知らずの内に飲み込まれ、無限や永遠を食べていることになる。

しかし、たとえその様なブロッコリー的な多次元宇宙の中に居たとしても、
この野菜にマヨネーズをかけたり、匂いを嗅いでみたり、水を飲んだり、くしゃみをしたり、
居眠りをしたり、月を見上げたりする、この「私」という感覚が無くなってしまう訳では決してないだろう。

そんなことが、ふと頭をよぎった。

薔薇の香りと記憶

薔薇の香りと記憶

「薔薇の匂いを嗅いで過去を回想する場合には、薔薇の匂いが与えられたことによって過去のことが
 連想されるのではない。過去の回想を薔薇の匂いのうちにかぐのである。」

とアンリ・ベルクソンは言っている。
なんとも詩的で、ドキッとするような言い回しだろうか。
ニュアンスとして納得はするが、「過去の回想を薔薇の匂いのうちにかぐ」とは一体どういう事なのだろう?

誰しも、ある「匂い」を嗅ぐと特定の「記憶」が想起されるという経験があると思う。
その様なことに対して、それは脳の仕組み上「匂い」を感じる回路と「記憶」の回路が隣接している為に「匂い」と「記憶」の関係性が強い結びつきを持っていると言う事を「知識」としては知っている。
メカニズムとして知らなくても、「あぁ、そういう事あるね。」と納得はするのではないだろうか。

しかし、その知っているという「知識」や「了解」が、本来の「匂いを嗅ぐ」とう事の可能性を
閉じてしまってはいないだろうか? 事実、わたしがこの言葉にドキッとさせられたのは、そのことだった。
自分の中で、「匂いを嗅ぐ」とう事の可能性がどれほど限定されてしまっているかを痛感させられ、
なにも「見ていない」自分をそこに発見することになる。
もちろん、ベルクソンと自分とを比較するのはなんとも無茶なことだけれど、
「匂いを嗅ぐ」という行為においては、そこに差があるわけではないだろう。

そして、その言葉の中になんとも甘い「知」の香りを感じて、思わずため息をつくのでした。

セザンヌとタゴール

セザンヌ

年末にポーラ美術館でセザンヌの静物画をみる機会があった。
絵の前に立つと、すぐにはその場を離れられないような感じがして、しばらく絵を見続けていると、
不自然に見える部分が、ある瞬間にとてもリアリティーをともなった存在に見えることある。
それは、物質的なリアリティーではなく、セザンヌと言う画家の視覚(思考)がそのまま定着したような、なにか執念のような頑強さで塗り固められているようだった。

そして、わたしの目の前には「見る」と言う事を突き詰めた人の絵がある。

With the colour of my own consciousness
The emerald became green, the ruby became red.
I opened my eyes at the sky,
And there was light In the east, in the west.
I looked at the rose and said,`Beautiful!'
Beautiful it became.

インドの詩人タゴール、その言葉を通してセザンヌの絵画を見るとき、見えなかった輪郭がありありと浮かび上がる。難解と言われるセザンヌの絵画だが、「見る」と言う事の困難さに向き合ったとき、
あるいは「見る」ということの向こう側に思い至ったとき、セザンヌが描こうとした何かに、一瞬触れる事が出来る様な気がする。
絵を前にして感じるなにか、それが正しいとか正しくないとかは問題ではなく、
そこから何を感じるのか、その「見る」行為は無意識に眠る感覚に向き合うことでもある。

「私の意識を通してエメラルドは緑となり、ルビーは赤となる。」

その言葉がセザンヌの絵を通過してより鮮明にわたしの心に響いてくる。

夜のバス:どこにもない場所

夜のバス

夜の闇を一層際立たせるように明かりを煌々と灯して、バスが路肩に横付けされる。
座席に人影はなく、遠く前の方に運転手がいるばかりだ。
掴まる人の無い吊り革の列も所在無さげに、整然と宙にぶらさがっている。
扉の閉まる「プシュー」っと言うあの独特な音の後、静かに夜へと滑り出す。

いつもの角を曲がった途端に、見慣れない夜の景色がつぎからつぎへと流れて行く。
いったい自分が何処へ向っているのか、ここはどの辺りなのか、走るほどに心細さが増してくる。
知った道でも、昼と夜では全く別の場所のような気がしてくるのだから、
知らない土地であれば、なおさらのことだ。
夜のバスには、どこか知らない場所へと私を運んで行く様な、なんとも心細い風情がある。

それは市内の巡回バスであっても、何処か遠い地へと私を誘って居るように感じるのだ。
その遠い地とは一体どこのことだろう?
それは多分「どこにもない場所」のことだ。ぼんやりとその無い場所を思い浮かべてみる。無い場所を思い浮かべてみることができるというのも、なんだか不思議なことだ。

夜のバスの心細さはきっと、その「どこにもない場所」と繋がっているのではないだろうか。
そして、その「どこにもない場所」への入り口は他にも案外と身近な場所にあるように感じる。
誰も居ない閉店後の夜のスーパーマーケットや、暗がりの中にぽつんと建つ電話ポックスに、
夜のバスや電車、あるいは目的もなく行く空港のロビーに、深夜の高速道路を走るタクシーの中に、
それらは、人々に見過ごされて、いまも日常の影にひっそりと佇んでいるのではないか?

そして、そこは物語やアートやデザインが生み出される場所とも何処かで繋がっている様に思う。

花を生ける人、花を見る人

生け花

さりげなく置いてある、生け花を見てふと思ったことがある。
「あぁ、花は美しいな」と見るなら、自然の中に咲く花をみるのが一番良いはずだが、
生けてある花には、それとは別のなにかが潜んでいる。
それは、とても当たり前のことなのかも知れないが、あえて見つめ直してみたい大切なことでもある気がした。

5万年前のネアンデルタール人の墓から花が埋葬された痕跡が発見されたという話がある。
学説では否定的な見方もあるが、その真相はまた別の話として、
そこから感じる私たちの心に動きの方に大切なことが潜んでいるように思う。
それは、花は誰かの為に摘み取られ、捧げられていると言うことだ。
また、仏前の花でも、今ではこちらに花をよく見える様に生けるが、昔は仏様の方に花を向けていた。
さりげなく置いてある、一輪挿しの花もまた誰かにむけて捧げられた花である。

生けてある花を見るとき、私たちは花の美しさだけを見ている訳ではない様に思う、
その花の向こう側にある美しさに心を動かされているのではないだろうか?
花を通して、その花を生ける人の「心の動き」の美しさを如実に見ている。

その様に花を見た時、それはこの世の中で一番美しいもののような気がしてくるのです。

空の色、薄色の空。

薄色の空

昼と夜の狭間、世界が青一色に染まる時間(青の時間)の少し前、その空もまた良い。
束の間に現われるうっすらと赤味を含んだ白々とした薄紫色の空。
日本の伝統色で言えば、薄色(薄い紫色)くらいの色合いだろうか、
ほんの瞬間に立ちあらわ現れる、なんとも微妙で儚い色彩のグラデーション。

消え行く色彩の最後に現れる、色とすら言えない様なうっすらとした色彩。
遠い彼方から届く便りのように繊細な色は、
どこか心細いような、甘く切ないような、形容しがたい感情の想起がある。
日が暮れてしまうことが心細く切ないというだけではない何かを、そこに感じているように思う。
それは、言葉にすることの出来ない、なにか遠い感覚だ。

夕焼けの様に派手な色彩もドラマチックな印象もない、
あまりにも繊細で瞬間に立ち消えてしま為に、きっと、気づかずに通り越してしまうよう空。
その、儚さゆえに、なにか心を揺さぶるものがある。

見ることについて

吉澤美香

ずっと気になっていた作家の絵を、部屋の壁に掛けることにしたのは、もう15年も前のこと。
掛けるといっても結構大きな絵だったので、当時住んでいた6畳一間のアパートの壁一面がその絵で埋まってしまった。それからというもの、毎日眺めることになるのだが、今でも見飽きると言うことがない。

絵を壁に掛けることが「見る」と言う事と向き合うスタート地点となった。
それまで閉じていた目をやっと開いたようなものだようなものだ。
「見る」ということは、容易なことのようだが、思いのほか難しいことでもある。
視覚的に見るというのなら、なんの事はないが、その先を見ようと思うと、
これがなかなかやっかいで、突如として「見る」と言うことの困難さと直面することになる。

自分がなにを見ているのか?目に映る対象からなにを感じ、何を思うのか?
そして、作家がなにを感じ、何を考え、そこに何を見ようとしていたのか?
絵を前にしたとき、この二つの視点の間に立たされることになる。

しかし、どんなに必死に見ても、あるいは長い時間をかけようとも、逆立ちして見ようとも、
見渡すことすら容易ではなく、ほんの一部をやっとの思いで見ることしかできないのだ。
また、見たと思ってもそれは検討違いな事もあるかもしれない、それなのに答えは何処にもない。
そこに、正解などなく、もちろん、終わりがある訳でもない。
ただ、分かり得ないということと、静かに向き合うしかないのだ。

また、「見ること」と「知ること」は別のことでもある。
インターネットで調べれば、その作家や作品のいろいろなことを知ることができる。
しかし、それは逆に「見る」ということ妨げることにもなりかねない。
情報が溢れている現代において、「見る」ということに寄り添うのは、なんとも難しい。
そして、「見る」と言うことは、その本質において「創造」すると言うこととイコールで結ばれているように思う。

※画像は吉澤美香さんの作品:へ - 16(部分)

その中心においてはむしろ混沌としている方がいいんじゃないの?

囲炉裏

囲炉裏に燃える炎を見ながら、ぼんやりとこんなことを思った。
私たちが何かを作る根源では、混沌としたエネルギーが常に火種のように、熱く燻っている。
フラットでシンプルな現代の中では、その様な混沌は影を潜めてしまっているかのように見えるが、
何かを作る時の心的エネルギーの中心では、理路整然とされていないある意味、無目的で無方向な過剰さや、偏執的な強さや、情熱が熱く渦巻いている。
全てが無目的で無方向では話にならないが、行為の根底においては分別をつけないままが良いのかもしれない。
大人になり分別がついてしまうと、いろいろなことを経験や知識と照らし合わせて、
このレベルなら作らないでおいて、またの機会につくれば良いと思ってしまうことがままある。
でも、全てが予定調和の中で何かを作るよりも、核となる大切な部分はあえて分析してしまわずに
衝動にまかせて「えいやっ」とやってしまうのが良い様な気がしている。

仕事でもトップダウンの予定調和で作って行くのは案外つまらなくて、効率は決して良くないが、
ボトムアップに行きつ戻りつしながら、混沌の中で作る方が、思いがけないモノが生まれて面白い。
囲炉裏に立つ炎のが、ガスコンロの様に真っ直ぐ燃えていたら、きっとちっとも面白くない。
何処行くのか分からない無方向な揺らぎがあるから、いつまで見つめていても飽きないし、
その混沌とした揺らぎの中にイマジネーションをかき立てる何かがある。

何かを作るその中心においては、むしろ混沌としている方がいいんじゃないかと思う。

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