記憶の棲む場所

植物園


そこは 記憶の 棲む場所
薄暗い 足元を通り過ぎる 何かは
たぐり寄せられた 遠い感触
差し込む 光に 照らされ
過去と未来が 溶け合い
植物達の呼吸が 小さな 葉音を立て
その ささやきの中に 
密やかに 混ざり合う


記憶の中の風景

記憶の中の風景

それは、いつか見た 記憶の中の風景
通り過ぎる一瞬の中に 降り積もる 光の集積
どこか、遠くを見つめるように ぼんやりと 曖昧さの中に 溶けてゆく 
消えてしまった香りのように 空白の気配だけが 音も無く 佇んでいた

過ぎ去ってゆく、それらは 小さな 痕跡をのこして
気化する液体のように、光の中へと 帰ってゆく 

交差点や歩道橋の上で、あるいは、眠りに落ちるその一瞬に
水中にキラリと光る 魚の群れのように 現れては 消える

その、他愛のない 光の集積 が ぼくを きみを かたちづくっている
小さく風が 吹けば 光のかけらとなり ぼくも きみも 空へと散ってゆくだろう 

その時、そこにいるのは、君だったのか、ぼくだったのか

すべての境界を越えて 曖昧さの中へと 帰ってゆく

光のかけら

光のかけら

ばらばらになった 風景が、午後の光に 注がれる
分散する 光のかけらが 空中をゆっくりと 漂い、
手の平の上に 降り積もる。

きらめく光に 耳をすましてみると、
網膜の裏側で 乱反射する光の音が かすかに
聴こえてくるようだった。

いつまでも繰り返される 静かな呼吸の中にも、
発せられた ことばの間にも、午睡の隙間にも、
光のかけらは、小さな傷のように織り込まれ、
風景との境界は、しだいに曖昧になって行く。

そして、いつか、ばらばらになった 風景が 
あなたの 記憶の中で結ばれるようにと、

そっと 小さく目を閉じる。

沈丁花の香りの中で。

沈丁花

いつもの道を曲がると、不意にどこからともなく、沈丁花の香りが漂ってくる。
まだ寒い空気の中で、その周囲の気配だけがほころんでいるかのようだ。
冬の中に幻のように香るその匂いは、なんとも微かで、今にも消えてなくなってしまいそうに儚い。
そして、毎年きまってその不意打ちに、なぜだか心のどこかを締めつけられるような切なさで、
胸がいっぱいになる。
それは大人になるにつれて、だんだんと薄れてしまった子供の頃に感じていた世界の感触とよく似ている。
しかし、沈丁花の香りにまつわる特定の思い出がある訳ではなく、
それはもっと本能的な何かで、何処か遠い記憶や感覚に繋がっているような気がしてならない。

そう、いつもの道を曲がると、私は私の中にある未知の何かと密やかに出会うことになるのだ。

薔薇の香りと記憶

薔薇の香りと記憶

「薔薇の匂いを嗅いで過去を回想する場合には、薔薇の匂いが与えられたことによって過去のことが
 連想されるのではない。過去の回想を薔薇の匂いのうちにかぐのである。」

とアンリ・ベルクソンは言っている。
なんとも詩的で、ドキッとするような言い回しだろうか。
ニュアンスとして納得はするが、「過去の回想を薔薇の匂いのうちにかぐ」とは一体どういう事なのだろう?

誰しも、ある「匂い」を嗅ぐと特定の「記憶」が想起されるという経験があると思う。
その様なことに対して、それは脳の仕組み上「匂い」を感じる回路と「記憶」の回路が隣接している為に「匂い」と「記憶」の関係性が強い結びつきを持っていると言う事を「知識」としては知っている。
メカニズムとして知らなくても、「あぁ、そういう事あるね。」と納得はするのではないだろうか。

しかし、その知っているという「知識」や「了解」が、本来の「匂いを嗅ぐ」とう事の可能性を
閉じてしまってはいないだろうか? 事実、わたしがこの言葉にドキッとさせられたのは、そのことだった。
自分の中で、「匂いを嗅ぐ」とう事の可能性がどれほど限定されてしまっているかを痛感させられ、
なにも「見ていない」自分をそこに発見することになる。
もちろん、ベルクソンと自分とを比較するのはなんとも無茶なことだけれど、
「匂いを嗅ぐ」という行為においては、そこに差があるわけではないだろう。

そして、その言葉の中になんとも甘い「知」の香りを感じて、思わずため息をつくのでした。

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