にほんの夏の夜の夢:盆踊り

盆踊り

盆踊りの季節です。
湿気の多い日本の夏には、このゆったりと静かに白熱して行く感じが良く合っています。
鳴り響く和太鼓のリズムに乗って、ぐるりと川の様に流れて行くこの輪の中では、おばあちゃんも若者も子供もなんの隔たりもありません。
浴衣姿に交じってサラリーマンやOLさん達が輪の中に居ても、違和感を感じさせない様な大らかさがあります。この大らかさこそが、盆踊りが現代でもこんなに沢山の人を惹き付けている要因の一つかもしれません。

輪の外から眺めてみると、踊る人の影になにか不思議な力が宿っているように見えました。
広場の中央のやぐらに光が灯り、輪の外側に広がる影は彼岸に向って伸びているかの様です。
昔なら、輪の外側は夜の闇に溶けて行き、そしてきっと、中央のやぐらは焚き火の明かりが
ゆらりゆらりと揺らめいていた事でしょう。また、その焚き火は迎え火でもあったはずです。
踊る人の影が先祖達の影と何処かで交差していたとしても、不思議なことではない気がしてきます。
この踊りの大らかさが、夏の夜に「こちら側」と「向こう側」との境界を曖昧にしているようなそんな印象を受けました。

わたしたちが何かを思い浮かべるとき、今ここに無い「向こう側」の世界に触れている。
昨日観たテレビも、遠くの誰かも、月の裏側も、あらゆる思い出も、今ここにはないが思い浮かべることが出来る、そして、今ここに無い何かを思い浮かべる事ができるからこそ、「向こう側」の世界があるとも言えるのではないか? だとするなら、「こちら側」と「向こう側」を隔てているのも、繋いでいるのも私たちの意識そのものなのか?
また、イマジネーションは常に「向こう側」に向って開かれている、そして誰もがイマジネーションの縁に立って、今ここに無い何かを思い浮かべることができる。

盆踊りの揺れる影がそんなことを語りかけて来たようだった。
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目に映る東京タワーは、心の中にある東京タワーと同じ東京タワーか?

東京タワー

霧に隠された東京のシンボル。
東京タワーを思い浮かべた時、私たちの心にぼんやりと浮かぶ東京タワーのイメージは、
青空の下で仰ぎ見る、鉄骨の1本1本が鮮明に浮き彫りになった実物よりも、
この不鮮明な光景の方がずっと近いような気がした。
記憶の中に格納されたイメージは、曖昧なカタチを与えられてぼんやりと、あやふやに
抽象性の中へ溶けて行く。
誰かの顔を思い浮かべるときも、細部を鮮明に記憶している訳ではなく、ある印象の総体として
抽象化された人物像が、ありありとした個性を持って心に中に形づくられる。目の前にある東京タワーも、私たちの中でそれぞれに、抽象化された曖昧なカタチとして存在している。

はたして、目に映る東京タワーは、心の中にある東京タワーと同じ東京タワーなのだろうか?

曖昧さの向こうに

曖昧-1

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「なんとなく」なものが良いと思う。
モダンデザインが目指してきた緊張感や黄金比やグリッドシステムの外側にある世界に心惹かれる。
システムが取りこぼしてきた、割り切れなさや曖昧さの中に大切な秘密が隠れているしたら、
計算によって導かれる絶対的なレイアウトよりも、何となく置かれた曖昧さに
心を打つなにかが隠れていても不思議なことではない。

緊張感が画面を構成するのでは無く、時間を孕んだような「ゆるみ」が画面をバランスさせて行く。。
ゆっくりとした時間をそのまま反映したような、どこか定まらないままの、
でもある一瞬、ピッタッと静止した様なレイアウトやバランスが捉えられないだろうか、、。

「ゆるみ」や「ゆらぎ」「かすか」「なんとなく」など感覚が捉える極限の微細性がそこにはある。
「なんとなくコレが好き」と言う様に誰もが意識することなく、その微細性を手にしている。

「なんとなく」の精度を極限まで高めると形式や型、道などに至るのかも知れない。
しかし、「なんとなく」なものを「なんとなく」のままに、曖昧なまま扱えたら素敵だと思う。

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