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沈丁花:感覚の深淵を嗅ぐ

感覚の深淵

沈丁花の花が咲いた。一年ぶりに香るその花。

どんな香りだったかイメージしてみたものの、実際のその奥行きの深さに改めて驚かされる。
香りは花からやって来るはずなのに、まるで意識の深いところから立ち上がる様にそれは香って来た。
意識の中にある「香り」と現実の「香り」が一年ぶりに再会する瞬間がこの季節に巡って来るのだ。
一年という時間の中でイメージと現実のマッチングにズレが生まれ、そのズレの大きさに心が震えたのだろうか?
その香りはいつも決まって不意打ちの様に、意識を超えて何処か遠くから漂ってくる。

確かこんな香りだろうと想像してみると、鼻孔の奥の方で微かに沈丁花の香りが漂うような気がする。
いや、微かではあるけれど確かにふんわりと香りが漂う。
幻の様に、意識の中で生成された香りが鼻孔の奥の嗅覚受容器まで逆流してくるような感じがする。

「嗅ぐ」ということも「見る」ということも、実は目の前の感覚刺激のみで完結している訳ではない。記憶や意味の下支えがなければ、それが良い香りなのか、嫌いなのかすら分からない。今、触れている事象そのものを超えて、意識の中からあるいは意識以前の深淵から「香り」が立ち上がるのだ。
また、そのような意味において私たちの感覚は自分自身の経験のみで出来上がっている訳ではない。40億年という長い長い時間の中で先天的に刻まれてきた蓄積が ー 今まさに咲かんとする花の芳しい香りが、「私」という小さな意識体験を遥かに超えた生命記憶として ー 奇跡のように結実する。

つまり「私」が出会い感じる事象は奇跡の連続の上に成り立っているとも言える。
この瞬間に感じる感覚の中に、生命の起源として活動を始めた細胞の記憶が含まれていても不思議はないのではないか? 降り注ぐ太陽の光や熱に、そよぐ風の感触や、ふと感じる懐かしさの中に、それらは遍在している様に思えるのだ。

そのようなことを感じた時、ベルクソンのいう「薔薇の匂いを嗅いで過去を回想する場合には、薔薇の匂いが与えられたことによって過去のことが連想されるのではない。過去の回想を薔薇の匂いのうちにかぐのである。」という言葉が腑に落ちる気がした。
沈丁花の香りを通して意識の深淵に眠る何かが、その内から生成されるようにして香るのだ。

香りの中に感じるある感慨が「私」という限定された経験の外にもあるのだとしたなら、
「私」と「あなた」は同じ感慨を知らず知らずの内に共有していることになる。
では「私」と「あなた」を隔てているもの何か?
生命記憶という深淵において「あなた」と「私」は確実にどこかで繋がっている。
そして、その隔たりは、ほんの僅かなものに過ぎないのではないかと思うのです。


一年ぶりに香るその花が、言葉の代わりに「香り」通して告げたのは、そのようなことだったように感じたのです。また、生命の起源から捉えれば、「あなた」も「私」も「沈丁花」も大した違いはないよ、と言っているようにも思えるのです。


関連記事:「沈丁花の香りの中で。」 
関連記事:「薔薇の香りと記憶」
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にほんの夏の夜の夢:盆踊り

盆踊り

盆踊りの季節です。
湿気の多い日本の夏には、このゆったりと静かに白熱して行く感じが良く合っています。
鳴り響く和太鼓のリズムに乗って、ぐるりと川の様に流れて行くこの輪の中では、おばあちゃんも若者も子供もなんの隔たりもありません。
浴衣姿に交じってサラリーマンやOLさん達が輪の中に居ても、違和感を感じさせない様な大らかさがあります。この大らかさこそが、盆踊りが現代でもこんなに沢山の人を惹き付けている要因の一つかもしれません。

輪の外から眺めてみると、踊る人の影になにか不思議な力が宿っているように見えました。
広場の中央のやぐらに光が灯り、輪の外側に広がる影は彼岸に向って伸びているかの様です。
昔なら、輪の外側は夜の闇に溶けて行き、そしてきっと、中央のやぐらは焚き火の明かりが
ゆらりゆらりと揺らめいていた事でしょう。また、その焚き火は迎え火でもあったはずです。
踊る人の影が先祖達の影と何処かで交差していたとしても、不思議なことではない気がしてきます。
この踊りの大らかさが、夏の夜に「こちら側」と「向こう側」との境界を曖昧にしているようなそんな印象を受けました。

わたしたちが何かを思い浮かべるとき、今ここに無い「向こう側」の世界に触れている。
昨日観たテレビも、遠くの誰かも、月の裏側も、あらゆる思い出も、今ここにはないが思い浮かべることが出来る、そして、今ここに無い何かを思い浮かべる事ができるからこそ、「向こう側」の世界があるとも言えるのではないか? だとするなら、「こちら側」と「向こう側」を隔てているのも、繋いでいるのも私たちの意識そのものなのか?
また、イマジネーションは常に「向こう側」に向って開かれている、そして誰もがイマジネーションの縁に立って、今ここに無い何かを思い浮かべることができる。

盆踊りの揺れる影がそんなことを語りかけて来たようだった。

地上1センチメートルの宇宙

夜空

夜、ビルの谷間を歩いていて、ふと頭上を仰ぎ見るとそこには夜空が広がっている。
改めてじっくり見上げてみると、何一つ遮るものもなく、ここから宇宙空間へと繋がっている。
頭上には無限に広がる空間がぽっかりと口をあけている。
無限の中に私が吸い込まれてしまわないのが不思議なくらいに思えてくる。
そして、足元を見れば地面は地球そのもので、地球の上に立っている私を発見する。

それらはしごく当たり前のことなのだけれど、ちょっと意識の傾けた方をかえると、
見慣れた夜空も地面もそびえ立つビルも街を照らす明かりも行き交う人々も
何処か見知らぬ惑星の上の出来事のような気がしてくる。

地球の上に立って、宇宙空間の下に居ることを忘れないでいようと思った。

雨がつげるなにか

雨

今日は思いのほか天気が良いのですが、、、昨日、雨の中で想ったことを書いてみました。

霧のように細かな雨が、音もなく静かに降り降り注いでいる。
街も木々も人も、通りの隅に佇む猫も、皆一様にやわらかな雨の中に包まれている。
こんな風に、大気に包み込まれる様にして雨に濡れていると、
どこか意識の奥深く遠い部分をなにかが微かにかすめて行くようだった。
それは思い出す事すらできない身体の中に眠る記憶の断片。
私たちがまだ樹の上で暮らしていた遠い昔の、濃密な森の香りを立ち上げながらいつまでも続く長い雨の記憶、樹を降り、荒野を北上した時に遭遇したであろう、サバンナの慈雨。
見渡す限りの大地を覆い尽くすようにして、細かな雨粒が身体を静かに覆ったその感覚が
今も、皮膚の奥深くに眠っている様に思えてならない、、。

皮膚の上で感じるか感じないかの、ほんの僅かな雨の感覚がその微細さゆえに、
私の中でなにか知り得ぬものが眠っている事を告げているかの様だった。

あらゆる感覚器官が長い時間を経てかたち作られ、いま「私」として外界からの情報を受け取ることができているなら、その感覚の向こう側に、いつか感じた記憶が浮かび上がってくることもあるのではないかと思った。

コンテクストデザイン・ワークショップ:チューニング

チューニング

コンテクスト(文脈)という言葉に興味があり東京自由大学で行われている
上林壮一郎さんのコンテクストデザイン・ワークショップに参加をしたのは、2年前のこと。
このワークショップの良いところは、答えや結論を無理に作り出さないところだと思う。
最終的にグループワークを通して提案にまとめ上げはするものの、
その提案はある余白を残して参加者各自の今後に委ねられる様な大らかさがある。
何にでも答えや結論や結果を求める現代の中では、疑問や不思議や興味をそのままに見つめる事は
とても貴重な試みだと思う。
参加者はテーマを通して各自の「問い」を見出すプロセスを踏む事になる。

今回で7回目の参加だが、また新たな気付きを得る事が出来たと思う。
「チューニング」というテーマでなので、どんな深いデザインの世界が見えてくるか楽しみだった。

言葉を通して考え、上林さんの作品から何かを感じ、グループワークで各自の「問い」を立てる。
今回の目的は「チューニングのセンスを磨くこと」だと言われていたのが、とても印象的だった。
私にとって「チューニング」する何かは、目には見えない物事を可視化する試みではないかと思う。
今まで、見落としていた何か、気づかずに通りす過ぎてしまう何か、触れる事の出来ない何か、、。
それらを捉える意識の変化への秘密がそこにはある様な気がする。

2008.5.24 東京自由大学 コンテクストデザイン・ワークショップ
「チューニング」-次元の断面を切るあかり- 
講師:上林壮一郎 (デザイナー・京都造形芸術大学准教授)

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